Smile

彼がこの部屋を出て行った後も 必ず朝はやって来た。 幸いなことに 雨は降らなかった。 毎朝降り注ぐ眩しい程の太陽が 少し前向きに考える私を作り出そうとしていた。 部屋には7年間に少しずつ揃えていった生活の跡がある。 今後 彼が必要とするもの 私がどうしても手放したくないもの そういったひとつひとつを 具体的に彼と話し合う必要がある。 気づくと 心とは裏腹に「離婚」という事をいつしか納得してしまったような私が その為にしなくてはならない現実的で 厄介な問題に取り組もうとしていた。 今までにも 彼が家を空けるたび “戻って来て”とよく泣いた。 だけど 今回ばかりは もうそれは起こらない気がしていた。 もし 離婚という事になれば 彼は時々 子供達に会いに来るのだろうか。  ― 子供にとっての父親 ―  ― 彼にとっての子供 ― そんなことを それぞれの立場と想いを複雑な気持ちで絡ませながらシミュレーションしている私がいた。   彼がこの部屋を出て1週間が過ぎた朝 小さな小さな蜘蛛が天井から糸の先にぶら下がっていた。 そして 懸命に上へと糸を手繰り寄せては降り また 忙し気に手繰り寄せては降りる事を繰り返していた。 私は蜘蛛が大の苦手だったが この時ばかりは “朝蜘蛛は殺すものではない”という昔からの言い伝えに 一縷の望みを繋げた。  もしかしたら奇跡が起こるかもしれない。 彼が戻って来るかもしれない。 もう既に 食べ物が喉を通らなくなって1週間が過ぎていた。 心が身体を支配して 食べ物が喉を通るのを拒ませるのか 身体が心を支配して 通らないのか分からない。 ただ そこに“我慢”と言うものが存在しないせいか ちっとも苦痛ではなかった。 突然 電話のベルが鳴った。 直観的に 彼からだと分かった。 随分待っていたような でも 出るのが怖いような気分だった。 恐る恐る手にした受話器の向こうからは 彼の懐かしい声がした。 「もしもし・・・ 俺   元気?」 「うん」 「今夜 用があって近くまで行くから寄ってもいいかなぁ」 「うん」 「何か ちゃんと食べてんのか?」 「・・・」 「何か 食べたいものは?」 「何も・・・」 「とにかく 用が済んだら寄るから」 それだけ言うと 電話は切れた。 どのくらい時間が経過しただろう。 心待ちにしている私と どんな展開になるのか不安な私とが交錯し 早く会いたいような このまま来ないで欲しいような 形容し難い時間が身体中に覆い被さっていた。 また 子供は 全てを察しているかのように 深い眠りに入っていてくれた。 玄関の方で足音がした。 こういう事態になる前 そうしてきたように 彼はいつも通り 子供の眠りを妨げないようインターフォンは押さずに 自分で鍵を開け 1週間前まで帰って来ていた家へ入って来た。 急にそわそわし始め、部屋の中をうろうろしていた私は その瞬間 突っ立ったまま こわばった顔と目で精一杯微笑んだ。 彼もなるべく普通を装おうとしているのが分かった。 動作のひとつひとつがぎこちなく ニアミスを起こしそうな程の狭い部屋で お互い定位置の椅子に座った。 子供と私を残して出て行った あの日以来だった。 でも 初めて出会った二人というほどの白紙状態でもなく 過去を消しゴムで消そうとしたけど 綺麗に消しきれなかった しわくちゃの紙のような二人が 今 ここに居ると感じた。 「お前の好きな寿司を買ってきた。一つでもいい。口に入れろ」 ぶっきら棒だったが“お前の好きな”という言い方に涙が反応してしまった。 たった1週間会わなかっただけなのだから “私の好みを覚えていてくれた”と 大袈裟に感動するようなことじゃないのだけど・・・。 ただ 彼の心の中に 消し忘れの断片として くだらない一つでも私の事が存在していた事が嬉しかった。 「本当に悪いと思っている。  謝って済む事じゃないことも よく分かっている。だけど・・・」 「謝らなくてもいいよ」 「どうして そこまで優しい・・・」 優しさじゃないのは 私自身が一番よく分かっていた。 彼の気持ちは 私の元には全く残っていない事を感覚的に でも はっきりと理解していたから 自分自身を辛うじて保つための自己防衛だった。 こんな時でさえ 冷静になろうとする自分がイヤだった。 彼を許さず 憎み続け 責める事が出来たなら こんなに遠回りをしなくて済んだのかもしれない。  ― 君のその寂しさ救えるのは もう僕じゃない ― そうなのだ。 彼の心は他の場所にある。 ただ “子供はかわいい”と言った。 特に“は”を強調したわけではない その言い方は 返って どうにもならない所まで来ている事を裏付けていた。 それでも戻って来て欲しかった。 たとえ それが子供の為だけであったとしても・・・。 彼の中に この生活を続けようという気持ちがほんの少しでも残っているのなら 彼女に伝えてあげて欲しいと願った。  ― 君のその寂しさ救えるのは もう僕じゃない ― そして また 私は自己嫌悪に陥った。

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大嶽 浩

Smileさま、まことに、ありがとうございました。 歌を詠むことで、なにかが腑に落ちて、きもちが軽くなることがあります。 席を待つ欄に浜田と君は書きぼくは省吾になりきろうとし 数年前ですが、ふたりの間のことを想いながらこんな歌を詠んだこともありました。 同じ電話の音なのに、なぜか”あの人”からだ、と想い込むのか、判ってしまうのか。そう、たまにわたしもあります♪エモノート、ありがとうございます。

zappi-kun

文才がすごい! 情景が目の前に浮かびます