A NEW STYLE WAR

浜田省吾

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みかんちゃん

約33年前省吾さんのコンサートは行った事がなくて行ってみたいなぁと思ってました。妹が何かで見つけてくれてコンサートの申し込みを電話で出来るのを知って何度かかけましたがつながらずその日は仕事だったので諦めていたんですが妹が休みで何度も掛けてくれて通じて行ける事になりました。大阪城ホールで当日券の人の所に並んで見る事が出来ました。ステージを真横から見るというすごい座席でしたが無理に設けてくださって感謝です。へりの音が聞こえてきてかっこいい省吾さんが印象に残っています。その後明るく軽快な曲の時はこちらに手を振ってくださり見にくい座席だとすごく気遣ってくださいました。 配られた冊子にファンクラブ入会募集の紙を見つけてすぐ入会しました。

大嶽 浩

その日の朝、三月三十日、妻と一緒に聞いた医師からの言葉。 「肺がんが見つかりました・・・一年後の生存率は7%です。その7%になるよう、これから治療をしていきましょう・・・」 前年の暮れに“百日咳”、と診断されて寝込んでいた妻が、三か月経過しても一向に回復しなかったため、別の病院で再検査した一週間後、「肺がん」という結果でした。 妻は無言のまま、そのまま崩れ落ちました。 その半年後の九月二十八日、痛みから解放された妻は永遠の眠りにつきました。 妻43歳、娘18歳、息子11歳、わたしは48歳の秋でした。 通夜に、「木霊」を流し、葬儀に、「初秋」で妻を見送りました。 娘は進路を看護師、保健師へ。息子はしばらく高校生にあがるまで不登校が続きました。 妻との出会いは、彼女が短大を卒業し、わたしが勤務する会社へ4月に入社したことから。 1986年、総務部の彼女は21歳、営業部のわたしが26歳。その夏が過ぎた頃、恐らく総務の特権でわたしの自宅の電話番後を調べたのか、彼女から突然のデートのお誘い・・・彼女の友人が勤める水族館へ、招待券をもらったのでご一緒に行きませんか? と。 入社時に彼女を見かけて、ちょっとだけ関心をもっていたわたしには、大学を卒業してから、交際する女性もいなかったので、すぐに、OK!だよ、と返事。 初デート。 太陽が傾く、夕暮れ。水族館から帰り際、埠頭にクルマをとめる。助手席の彼女が水玉模様のトートバックから出したTDKのテープ。 「弟が好きな歌手の歌・・・浜田省吾さん、っていうんだって・・・」、と彼女。 「あ、そうなんだ、ちょっと聞いたことあるかな、・・・たしか、風を感じて・・・だったかな、僕が聴いた曲」と、わたし。 彼女は、テープをアクリルのカセットから出して、 「・・・J.BOYっていうレコードをカセットに録音したんだけど、聴いてみる?」 ・・・ A NEW STYLE WAR・・・!!!! テレビのCM以外で聴いた初めての浜田さんの曲は、今から思えば、世界の技術がどんなに進歩しても、どんなに知能が高まろうとも、平和の裏に戦争への抑止のための武器を装備しあうことを止めない、浜田さんの 「A NEW STYLE WAR」。 「かっこいいね~」・・・わたしの第一声。 妻との出会いが、浜田さんの曲との出会い。その日から、浜田さんの曲をすべて聴きだしました。 四年後、二人の結婚披露宴に、「愛しいひとへ」、「晩夏の鐘」で結ばれました。 今年は、妻の十七回忌。 十年前の七回忌を迎えるときに、不意に気付いたことを短歌に詠みました。 一周忌、三、七、十三、割り切れぬ君への想いは二乗、三乗 煙草も吸わず、食事にも気をつけていた栄養士の資格を持つ妻が、なぜ癌に冒されたのか、いまでも割り切れない気持ちをいだいています。 お陰様で、娘は結婚、出産、離婚、再婚と歩み、息子もひとり立ちしてくれました。 数年後、妻の二十五回忌でようやく素数の回忌でなくなることで、気持ちは割り切れるでしょうか。 それまでには、息子も彼女と結ばれて欲しいと想います。息子が披露宴をしてくれたならば、その時は、披露宴をしなかった娘の分まで、浜田さんの「夢のつづき」を父として息子の前で歌いたいな、と想います。

樋上敦

当時、私は高校2年生のちの彼女にJ.BOYをカセットテープにダビングしてもらいウォークマンでいつも聞いていた。 広島、福山生まれという事あり、母も戦争体験者から当時の事を想像し未来に繋げた、ウイルス肝炎で入院中の母を見舞う汽車、バス、道すがなイヤーホーンから流れる声が今でも蘇る、暑い夏が甦る。

黒沼 和仁

高校生の時授業サボっテコンサートに行きましたw