検索例:あー夏休み
おすすめのアーティスト
佐野元春
国生さゆり
TM NETWORK
浜田省吾
渡辺美里
TUBE
米米CLUB
PRINCESS PRINCESS
SOMEDAY
拝啓 佐野元春 様 突然の不躾なお手紙で失礼致します。 30年以上、お伝えできればと思案しておりましたが、この度、45周年全国ツアーが催されることとなり、何とかチケットを手にすることが出来ましたので、これを機会にお送りさせて戴きます。 大した内容ではないので、軽い気持ちで読んでもらえれば幸甚です。 1989年のある日、電話が鳴った。電話の主はただ一人の親友と呼べる友人。「元春のクリスマスコンサートのチケットが4枚取れたから、弟たちと一緒に行こう!」喜び勇んでの電話だ。彼にも僕にも其々4つ下、5つ下の弟がおり、どちらも兄貴の影響で大の元春ファン。僕はこの友人の影響で元春ファンになった。彼は電話の終わりに言った、「でも、俺はちょっと虫歯をこじらせてしまったみたいで、軽い手術を受けなきゃならなくなった。少し入院するけど心配しなくて良いから。」それが、虫歯をこじらせたのではなく、癌であることが僕に知らされるのはそれから約1年後のことだ。 僕らの出会いは1980年の高校入学の日、同じクラスであり、同じバスケ部に入ったことで親交が深めた。当時、僕らのBGMはサザン、ユーミン、達郎、大滝詠一・・・ここに元春が飛び込んできた。当時はまだ、ウォークマンすら普及しておらず、LPを買ってきてカセットに落とし、これをデッキで聞くという時代。LPは高価で、誰かが買うとそれを貸してもらってダビングという時代。彼はすごく良いからと言って、元春を紹介してくれた。 その後、言うまでもなく、元春は僕らのNo.1アーティストとして君臨する。 初めてのライブは1985年のVISITORSツアースペシャル横浜文化体育館。ともに一浪した僕らは当時大学2年。チケットを取るには電話をかけ続けなくてはならない。家のダイヤル回線は繋がりにくいので公衆電話からかけ続ける。やっと繋がったと思ったら完売。そんなことを何回も繰り返した後、やっと取れたのがこれだった。迷うことなく彼に電話をかける。「元春のチケットが取れた!一緒に行こうぜ!」「まじか?!本当に?!」大喜びである。 当時の映像は今でも脳裏に染みついている。3時間半以上、立ちっぱなしの歌いっぱなし。興奮冷めやらぬ終了後、どこかに飲みに行こうかと思ったが適当な店が見つからず、コンビニでハイネケンを買って路上で乾杯した。その時に持ち帰った緑色の空き缶は、就職して家を出るまでカーテンレールの上に飾ってあった。彼は言った「今後、元春のチケットが取れたら、例え彼女ができたとしても俺ら2人で行くと約束しよう!」「OK!約束だ。」 その後も何度もトライするがなかなか取れない。日本青年館に行きたかったが、絶対に取れない。ファンクラブに入ればよかったのだろうが、当時貧乏学生であった僕らには難しい。それでも何とか僕の方で何度か取れて、毎回二人で行ったのだった。彼が初めて取れたのは前述のクリスマスコンサート(中野サンプラザ)だった。 彼は退院することが出来ず、仕方なく、彼の代わりに僕の彼女(後の嫁)が行くことになり、当日を迎えた。コンサートの終盤、“Goodby 80‘s,so don’t look back”と垂れ幕が下がり(ごめんなさい、あまり記憶が定かではないです。)、80年代の終わりを意識した。まさに彼と走った10年間だった。 一度は退院できたが、再度入院となった。回復を信じているが、一向に良くならない。見舞いの帰り、病院の出口まで送ってくれるという彼の弟にエレベーターの中で聞いた。「結局、病名は何なんだ?」「癌ですよ。あともって3ヶ月。」 分かっていた、分かっていたさ。でも、多分、僕の中で完全にそのことを拒絶していた。信じるとか信じないとかではなくて、意識の根底から絶対に治ると思っていたのだ。 その後も何度も見舞いに行った。彼がしきりに家に帰りたがっている。強い痛み止めを使用しているので時々意識が混濁している様だ。彼の弟が少しでも家の部屋にいるようにと、彼の部屋からポスターを剝がしてきて、病室に貼った。アルバムVISITORSの特典の元春のポスター。ニューヨークの橋の前で撮影されたモノクロのポスター。自分の部屋に帰ったと錯覚してくれただろうか? 1990年10月1日、彼は逝ってしまった。僅か25歳。 こんなファンが一人いたことをどうしても伝えたかった。ただ、それだけのことです。 今回の全国ツアーは一般販売に合わせて妻と共にPCとスマホでスタンバって挑戦しましたが、渋谷も市川も前橋も秒で完売。香川や四日市、熊本がまだ残っていたので日程を確認し、熊本を取ることが出来ました。その日のうちに飛行機とホテルも予約。貧乏学生だった時には考えられないことだ。もう、60歳、孫もいる。彼は25歳のままだ。 10月5日(日)熊本城ホールで妻と共にお待ちしております。80年代の曲は全部聞きたいですが、“Shadows of the street”が聞けたらいいなと思っております。今から待ち遠しいです。 この手紙がちゃんと元春の元に届きますように。 敬具
投稿されるユーザーについては、利用規約に同意したものとみなします
😭
同世代です。高校時代に聴いた音楽のこと、レコードが買えなくてカセットテープに録音してもらったこと、そして、元春の歌がひときわ輝いて心に響いていたこと…。共に過ごした青春、ご友人も幸せだったと思います。熊本のライブの日は命日に近いのですね。きっと天国の客席からあなたと同じ気持ちで元春の歌に酔いしれることと思います。
松尾さんの人生に佐野元春の音楽が深く寄り添ってくれていて、それはご友人と共に分かち合ってこられたものだったのですね🥹 ご友人も、このお手紙を天国から、そっと読んで、胸を熱くしておられることでしょう🍀 素敵なお手紙をシェアして頂き、ありがとうございました。
Best of beautiful FAN!エモノート内芥川賞を差し上げたい!
自分はもちろん佐野元春さんではありませんが拝読しました。心を打たれました。ありがとうございます。
拝啓 佐野元春 様 突然の不躾なお手紙で失礼致します。 30年以上、お伝えできればと思案しておりましたが、この度、45周年全国ツアーが催されることとなり、何とかチケットを手にすることが出来ましたので、これを機会にお送りさせて戴きます。 大した内容ではないので、軽い気持ちで読んでもらえれば幸甚です。 1989年のある日、電話が鳴った。電話の主はただ一人の親友と呼べる友人。「元春のクリスマスコンサートのチケットが4枚取れたから、弟たちと一緒に行こう!」喜び勇んでの電話だ。彼にも僕にも其々4つ下、5つ下の弟がおり、どちらも兄貴の影響で大の元春ファン。僕はこの友人の影響で元春ファンになった。彼は電話の終わりに言った、「でも、俺はちょっと虫歯をこじらせてしまったみたいで、軽い手術を受けなきゃならなくなった。少し入院するけど心配しなくて良いから。」それが、虫歯をこじらせたのではなく、癌であることが僕に知らされるのはそれから約1年後のことだ。 僕らの出会いは1980年の高校入学の日、同じクラスであり、同じバスケ部に入ったことで親交が深めた。当時、僕らのBGMはサザン、ユーミン、達郎、大滝詠一・・・ここに元春が飛び込んできた。当時はまだ、ウォークマンすら普及しておらず、LPを買ってきてカセットに落とし、これをデッキで聞くという時代。LPは高価で、誰かが買うとそれを貸してもらってダビングという時代。彼はすごく良いからと言って、元春を紹介してくれた。 その後、言うまでもなく、元春は僕らのNo.1アーティストとして君臨する。 初めてのライブは1985年のVISITORSツアースペシャル横浜文化体育館。ともに一浪した僕らは当時大学2年。チケットを取るには電話をかけ続けなくてはならない。家のダイヤル回線は繋がりにくいので公衆電話からかけ続ける。やっと繋がったと思ったら完売。そんなことを何回も繰り返した後、やっと取れたのがこれだった。迷うことなく彼に電話をかける。「元春のチケットが取れた!一緒に行こうぜ!」「まじか?!本当に?!」大喜びである。 当時の映像は今でも脳裏に染みついている。3時間半以上、立ちっぱなしの歌いっぱなし。興奮冷めやらぬ終了後、どこかに飲みに行こうかと思ったが適当な店が見つからず、コンビニでハイネケンを買って路上で乾杯した。その時に持ち帰った緑色の空き缶は、就職して家を出るまでカーテンレールの上に飾ってあった。彼は言った「今後、元春のチケットが取れたら、例え彼女ができたとしても俺ら2人で行くと約束しよう!」「OK!約束だ。」 その後も何度もトライするがなかなか取れない。日本青年館に行きたかったが、絶対に取れない。ファンクラブに入ればよかったのだろうが、当時貧乏学生であった僕らには難しい。それでも何とか僕の方で何度か取れて、毎回二人で行ったのだった。彼が初めて取れたのは前述のクリスマスコンサート(中野サンプラザ)だった。 彼は退院することが出来ず、仕方なく、彼の代わりに僕の彼女(後の嫁)が行くことになり、当日を迎えた。コンサートの終盤、“Goodby 80‘s,so don’t look back”と垂れ幕が下がり(ごめんなさい、あまり記憶が定かではないです。)、80年代の終わりを意識した。まさに彼と走った10年間だった。 一度は退院できたが、再度入院となった。回復を信じているが、一向に良くならない。見舞いの帰り、病院の出口まで送ってくれるという彼の弟にエレベーターの中で聞いた。「結局、病名は何なんだ?」「癌ですよ。あともって3ヶ月。」 分かっていた、分かっていたさ。でも、多分、僕の中で完全にそのことを拒絶していた。信じるとか信じないとかではなくて、意識の根底から絶対に治ると思っていたのだ。 その後も何度も見舞いに行った。彼がしきりに家に帰りたがっている。強い痛み止めを使用しているので時々意識が混濁している様だ。彼の弟が少しでも家の部屋にいるようにと、彼の部屋からポスターを剝がしてきて、病室に貼った。アルバムVISITORSの特典の元春のポスター。ニューヨークの橋の前で撮影されたモノクロのポスター。自分の部屋に帰ったと錯覚してくれただろうか? 1990年10月1日、彼は逝ってしまった。僅か25歳。 こんなファンが一人いたことをどうしても伝えたかった。ただ、それだけのことです。 今回の全国ツアーは一般販売に合わせて妻と共にPCとスマホでスタンバって挑戦しましたが、渋谷も市川も前橋も秒で完売。香川や四日市、熊本がまだ残っていたので日程を確認し、熊本を取ることが出来ました。その日のうちに飛行機とホテルも予約。貧乏学生だった時には考えられないことだ。もう、60歳、孫もいる。彼は25歳のままだ。 10月5日(日)熊本城ホールで妻と共にお待ちしております。80年代の曲は全部聞きたいですが、“Shadows of the street”が聞けたらいいなと思っております。今から待ち遠しいです。 この手紙がちゃんと元春の元に届きますように。 敬具
😭
SOMEDAY
佐野元春
同世代です。高校時代に聴いた音楽のこと、レコードが買えなくてカセットテープに録音してもらったこと、そして、元春の歌がひときわ輝いて心に響いていたこと…。共に過ごした青春、ご友人も幸せだったと思います。熊本のライブの日は命日に近いのですね。きっと天国の客席からあなたと同じ気持ちで元春の歌に酔いしれることと思います。
SOMEDAY
佐野元春
松尾さんの人生に佐野元春の音楽が深く寄り添ってくれていて、それはご友人と共に分かち合ってこられたものだったのですね🥹 ご友人も、このお手紙を天国から、そっと読んで、胸を熱くしておられることでしょう🍀 素敵なお手紙をシェアして頂き、ありがとうございました。
SOMEDAY
佐野元春
Best of beautiful FAN!エモノート内芥川賞を差し上げたい!
SOMEDAY
佐野元春
自分はもちろん佐野元春さんではありませんが拝読しました。心を打たれました。ありがとうございます。
SOMEDAY
佐野元春