境界線上のアリア

浜田省吾

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オフィスワーカー

高校生の時にファンになって、初めて発売時のリアルタイムで聴いた曲です。後年離婚した両親の仲も悪く、友人との人間関係もまだ不安定な10代の頃、「ひとりきり」という歌詞に強く励まされ、精神的に成長できました。当時は、京都の田舎町から市内の高校までバスを乗り継いで1時間の通学でしたが、行き帰りカセットウォークマンで聴き続けていました。そして、その翌年のライブに初めて参加すべくコンサートチケットをとるために前夜からCDショップに並んだ時、先に並んでいた方が、薄着だった私に毛布を貸してくださったことや並ぶ場所を教えてくださったことも、温かく忘れ難い思い出です。

寺前 守朗

この話は私が24歳の夏の出来事です。 長くなりますが、やはり人間の「生」と「死」というテーマに向き合うにはこういう重く暗い話を避けては通れません。 あの頃私は京都の大学に通っていたものの、留年して大学6回生でした。 大学の同期の奴らもすでに社会に出て京都を去ってしまっており、私は独り留年生活の時間をバイトに費やしたり、時折、自転車旅をしたりしながらダラダラと暮らしてました。 そんな暮らしを送っていたある夏の朝、1994年7月10日のことです。 たまたま、その日は徹夜でゲームをやって起きていたせいで、午前6時頃に自分の下宿部屋の前にバサッと新聞の朝刊が届く音を聞きつけ、すぐに取って部屋の中に戻りました。 いつものように一面記事からテレビ欄を見、スポーツ欄をチェックし、三面記事を見た時です。 まず、「和歌山でも排ガス死」という見出しが目に入りました。 遠く離れていても、自分の故郷の記事はやはり気にかかるんでしょう。 記事の内容を見ると、運転手が自動車を道路脇に停車させ睡眠中、マフラーが腐食していて亀裂が入っていたために、ガスが漏れ、車内に一酸化炭素が充満し中毒死した、とのこと。 この頃はよくこの類の事故があったらしいです。 この事故の時はさらに車の後部が炎上してしまったそうで、運転手もそのまま焼死体で発見されたという、なんとも痛ましい事故だなあと思いながら、何気無しに記事を読み続けていると、亡くなった方が自分の故郷の実家の隣町の人で、同じ年齢の女性でした。 そしてその女性の職業を見たときに初めて、アッ!と気づいたのです。 結婚して姓が変わっていたから、すぐには解らなかったのですが、記事の全文を見て総合的に解釈したとき、そこに書かれているのは私が高校時代にすごく仲の良かった同級生の女の子の死亡事故だったのです。 愕然としました。 思い返すと、高校時代には色々とその娘の悩み事の相談に乗ったり、逆に私が自分の他愛のない話をその娘に聞いてもらったり、 高校を卒業してそれぞれ故郷を出てから後は、私の浪人時代にもよく手紙をくれて、精神状態の不安定な自分をいつも心配してくれていた人でした。 何度ダメになりそうな自分を励まし、救ってくれたことか・・・。 やがて私も何とか志望大学に入れたおかげで、精神状態も少し落ち着き、大学3回生のとき一度故郷で高校の同窓会をしてからは、お互いの便りも自然と途絶えてしまいました。 何年か後、その娘が早々と結婚されたという話は、同じく京都にいた別の同級生から少し耳にしただけでした。 その同窓会以降、特に会うことも無く、でも世話好きな娘だから結婚しててもきっと同窓会とかには出てくるだろう、いつかすぐまた会うだろうと思っていたのです。 この記事を見つけた時、本当に私には悲しみとか寂しさという感慨が何も無くて、友人の死というものは初めて受け止めなければならないヘビーな現実だったので、自分はこの胸のざわめきをどうしたらいいのか、全く分かりませんでした。 新聞記事を見終えて暫し呆然としていた私がその後にとった行動は、とにかく自分とその子の共通の友人で、特に仲の良かった高校時代の同級生へ電話をかけて連絡を取る、というものでした。 そうやって、数年間途絶えてた故郷の友人達との絆を再び呼び覚まされたような一日を過ごし、連絡のついた友人とは、彼女の葬儀に参列しようということになりました。 次の日、喪服を持って京都駅から特急列車に乗りました。 お通夜は、彼女の旦那さんの実家がある和歌山県旧美里町の山奥で行われるということで、連絡を取り合い一緒に参列することになった故郷の同級生には、JR海南駅まで彼の車で迎えに来てもらいました。 しかしその同級生に会うのもほぼ3年ぶりで、しばらくは亡くなったその娘の話には全く触れず、久々に会えた嬉しさのせいか互いの現況報告みたいな話ばかりでした。 その同級生の彼もすでに結婚していて、今の仕事の話とか、彼の奥さんの話とか、取り留めのない会話ではありましたが、私達にとっては何か楽しいひと時だったのです。 そもそも彼に浜田省吾の曲を教えて、浜省ファンにしてしまったのは私だったのですが、やはり彼の車の中には浜省のCDが何枚も積まれていました。 そして旧美里町の葬儀会場に着くまでの道中、車内に流れていたのが、何を隠そう、浜田省吾のアルバム『その永遠の一秒に』だったのです。 夏の夕刻、国道370号線を山に向かって走っているその時間帯は「ベイ・ブリッジ・セレナーデ」「こんな気持ちのまま」「星の指輪」あたりが流れていたと記憶しています。 道中は重苦しい雰囲気など全くなく、このアルバムを聴きながらのドライブでした。 そして、やがてお通夜の会場に着き、駐車場から歩き出すと、少数ながらも他の同級生が先に来ていました。 それこそ5年ぶりに会う友人やら、高校卒業以来会うクラスメイトやら、これは不謹慎ながらも思いがけぬ同窓会だったのかも知れません。 ただお通夜が始まると、皆は一様に黙り込み、神妙な顔つきで、中には涙ぐむ同級生達もいました。 しかし、そこでも何故か私は、涙も、もうこの世には存在しない彼女に対する感慨も、何も湧いて来なかったのです。 私にとって馴染みの無い場所で、同級生以外、私達の知らない顔が大多数を占める参列者に弔われる彼女の遺影は、高校時代の自分の知り得る彼女の顔とは全く違うように見えていたのです。 全くの赤の他人の葬儀に来ているようなこの感覚はいったい何なのか、それに戸惑ってばかりだった気がします。 葬儀が終わりお通夜の会場を後にし、一路自宅まで帰る間の二人の車内は、先程までと打って変わって終始沈黙の空間でした。 そしてこのアルバムの最後の曲「初秋」がしんみりと終わり、一巡してトラック1に戻ったカーオーディオからは、突然排気音が鳴り出し、皮肉にも「境界線上のアリア」のこの一節が虚しく流れていたのを今でも憶えています。 俺の短い人生も一瞬の夢さ 意味など無い どこから来て どこへ行くのか わからない その必要も無い ひとり、ひとりきり・・・ 誰だって死ぬときはひとり ひとり、ひとりきり・・・ 今日一日を生き抜くんだ! あまりいい想い出ではないのですが、この曲を聴くたびにいつも、ひとりきりで旅立ってしまったあの娘のことを思い出します。 そしてこの事件こそが、京都の街が好きだからと、ひとりで生きる目的も見つからずダラダラ暮らしながら、一向にそこを離れることが出来ずにいた自分が「もう故郷に帰ろう」と決意した出来事でした。 この時の私は、所詮私達人間は、誰しも孤独な旅人なのだということを改めて思い、シニカルにならざるを得ない気分に見舞われてしまってました。 不埒な私は、生まれたところを遠く離れてたせいで途切れかけてた故郷の旧友との絆を、彼女によって取り戻させてもらったのかなと感じていました。 しかしそんなことは、彼女の本意でもなく、勿論そんなことのために彼女は命を落としたのでもあるまいし、本当に自分本位な解釈だと思います。 ただ、今もこうしてここにいるということは、人それぞれの因果や宿命であり、彼女の存在があってこそのご縁だったのだと信じて止みません。 こうやって、まだこの世に生かされている自分に出来ることは、早逝した彼女の分まで一生懸命生き続け、自分だけではない誰かの、ふるさとの、この国の、この世界に暮らす全てのものの幸せのために、自分の命の炎を燃やすことが、天命として与えられてるのではないか、などと考えたりしています。 今回、このエモノートという企画のお知らせを受けて、どうしても「境界線上のアリア」という曲にまつわるエピソードを書きたくなり、つい長々と書き連ねてしまいました。