-
元々、福山雅治さんのファンでした。
AMの「魂のラジオ」通称「タマラジ」という番組をされていた時、「魂のリクエスト」通称「タマリク」という、リスナーからのリクエストに福山さんが弾き語りで歌うコーナーがあり、2010年のある時、省吾さんの「Midnight Blue Train」がリクエストされました。
この時に、初めてこの曲を聴いて、すごく感動して、この曲をライブで聴きたい!と思いました。
それまでは、省吾さんの存在は何となく、サングラスをかけてテレビに出ない人。というイメージで、曲も数曲しか知りませんでした。
それから色々調べて、2011年にツアーがあることを知り、絶対行こう!と固く誓ったのを覚えています。
ツアーまでに勉強しなければと、過去のアルバムや映像を購入して、ヘビロテしていました。
省吾さんのファンになったきっかけの曲です。
ひろこ
2024/08/01
-
ありがとう・・
省吾の曲に出会ったのは15歳の時、高校受験勉強中のミスDJリクエストパレード、千倉まりのタイトルコール浜田省吾さんの「My Home Town」!高校では陸上部の浜省好きが集まって「陸部バント」で勿論マイホームタウンからの「パーキングメーターに気をつけろ」。大学1年の最初の授業で一目惚れした斜め前に座った女の娘は宮古島出身。はじめのコンパで気持ちを伝え交際を申し込んだけど敢えなく撃沈。そりゃあ東京のチャラい男がいきなり「すきです!」なんて信じられるわけないよね。俺が親でも絶対反対だわ。でもめげずに「Sand Castle」と「Promised Land]をカセットに落とし、僕の好きなアーティストだから聴いてみてと渡すと、あれ?意外に真面目な人かも?とお付き合いがスタート。
Club surf and snowbound , Down by the main street,Father’s son, J.Boy…
名曲アルバムとともに過ごした大学生活。
授業サボって教室後ろから抜け出し、2人で急いで駆けつけた代々木オリンピック体育館のJBOYコンサート。
卒業。Midnight flight 彼女を空港で見送り
再会を約束。
彼女は宮古島で先生、僕はネクタイ締めて僕が僕じゃないみたいな東京でサラリーマンの19のままさ。
社会人最初の夏休み、彼女に会いに行きながら沖縄の教員採用試験受検。出発の日に「誰がために鐘は鳴る」が発売・CD購入。CDウォークマンで「青の時間」を聴きながら仕事終えてスーツ姿のまま初の沖縄へ。なんと合格、3月、大泣き送別会、会社を辞め沖縄で教員スタートも束の間、俺は皆捨てて沖縄に来たんだと、おごり高ぶり、だらけた生活でいつもけんかばかりの、いつわりの日々。愛想つかされて振られしばし別々人生へ。
自分を変えようとフルマラソン・トライアスロンに挑戦!初マラソンの一番キツいときにふと頭に流れてきた「家路」。どんなに遠くてもたどり着いてみせる・・不思議と力が湧き完走。自信を持ってもう一度彼女の元へ、もう一つの土曜日。
27歳でその娘と結婚。披露宴の思い出のスライドの曲は「我が愛しのマリア」
子どもは男の子と女の子2人。5歳の長男と行った宜野湾野外のコンサート、大きな声でウォーウォー!イェーイェーイ!と歌う5歳児を見て周りが爆笑!
長男7歳、長女4歳、次女1歳の時に母親が倒れガンで余命3ヶ月の宣告、半年後他界。でも全てを受け入れてくれた女性と出逢い再婚。女の子を授かり、今では生意気中学生。今年、その長男も結婚、長女次女2人もいつの間にか成人。いい男に巡り会えて幸せそうだから、まっいいか・・。うちの娘見そめるなんていいセンスしてんじゃんと言い聞かせることにした( ; ; )
沖縄での最後のコンサートは2015年。今回7年ぶりのコンサート参加。僕らが今有るのは省吾のお陰といっても過言ではない。あのとき、高3からハマってた尾崎豊のカセットで一曲目ドライビングオールナイトのドラッグにイカれてブクブクではもしかしたらヤバいと思われて受け入れてもらえず、まずは友達から?とはならなかったかも。ということはこの人生はなかったということ。
後から尾崎も好きになってくれたけどね。
11月20日国際フォーラムA
いろいろな思いと共に心の中で叫びました。I am a fatger❗️省吾、ありがとう!
海人ひろゆき
2024/08/01
-
2011年のライブCDで初めて聴いたのは中学3年生の夏休みだった。
サビに出てくる“High school jail”の “jail”の意味もよく分からないまま妙な高揚感のあるリズムに魅せられた。「単車」も「ディスコ」も「喧嘩」も「街の女たち」も関係ない片田舎の中学高校生活だったが、通学の電車の中や受験勉強の合間に聴いていた。
浜田は終盤で「教科書から削る文字は/他にもあるぜ/例えば正義/たとえば希望/数えきれない」と歌う。
学生の頃は「教科書」を世の中の不都合を教えない教材という文字通りの捉え方をしていた。いざ社会に出てみると、この「教科書」というのは仕事をして生活していくあらゆる場面で我々が突きつけられる規範そのものだと気付いた。
なるほどこの歌はただの高校生の嘆きではないんだな、と気づいた頃、僕はもう高校生ではなかった。
帰社の目
2024/08/01
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
父の影響を受けて浜田省吾さんのファンになりファン歴20年の30代前半の者です。
浜田省吾さんの曲はその時の状況に心に刺さる曲が多く、人に恋した時や失恋した時、ムシャクシャした気分の時に聴く曲など色々分けて聞いていました。
その数多くある曲の中で1番自分に刺さった曲が「風を感じて」です。
その時の自分はいつも遊んでいた親友に彼女ができ、会うことが極端に少なくなり、元々特殊な休みで遊べる相手も少なかった仕事をしていましたので、仕事がちょうど重労働になり、休日にストレス発散できる友人もいなくなりかなりの疲労を貯めている時期になっていました。
そんな時に仕事終わりに車で流れていた「風を感じて」の歌詞の「自由に生きる方法なんて100通りだってあるさ」という歌詞が耳にとまりました。
それを聞いて、今自分はまだ1つの方法が無くなっただけで99通りの自由に生きる方法があるんじゃないかと気づかされました。
それから自分がこれから新しく自由に生きる方法を探し現在も、その仕事辞めることなく、親友とも仲良くやっております。
おそらくあと94通りにくらいになってますが、壁にぶつかった度に聴く最高の曲です。