君に捧げるlove song

浜田省吾

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マッピー

この楽曲が、発売される少し前に、母が亡くなりました。 母は、私が生まれた時から腎臓病を患っており、透析治療を受けていました。限られた時間の中で精一杯生きていたと思います。それだけにこの曲の歌詞にある与えられた時間の中を精一杯生きた君という歌詞や、いつでも家族の港だった、と言う歌詞、当時自分の中で、この歌の歌詞のストーリーが母と重なって、亡くなって2.3ヶ月経った車の中でこの歌を聴きながらふと目に涙があふれました。今でもこの曲を聴くと母の事を思い出します。

じゅん

この曲が発売される前日2003年9月9日に私の母がなくなりました。ガンでした。ガンが見つかった時には余命半年と言われましたがそれから2年半の闘病生活の末、逝ってしまいました。優しい人でした。大学を辞めた時も、一人暮らしがしたいと勝手に家を出て行った時も何も言わずに頷くだけでした。私が小学生の頃、腎臓を患い4ヶ月入院した時も毎日欠かさず見舞いに来てくれました。 そんな母に親孝行と呼べることを何ひとつできず今でも後悔をしています。 この曲を初めて聴いた時、「もう母さんは行くからあんたもしっかりしんさいよ」と言われているようでした。 あれから21年。自分も今年で50歳になりますが、いまだにこの曲を聴くと当時のこと、母のことを思い出し涙が出てきます。 どうしてもっと早く親孝行をしなかったのかと…。 いつかは誰しも別れの時がくる。だからこそ今、この瞬間が大切なんだといつも思わせてくれる…。私にとってそんな大切な一曲です。

山田茂

仲の悪かった妻が癌で亡くなりました。28年間私を無視しつづけ、辛い思い出しか思い出せない結婚生活でした。子供が独り立ちしても、なぜか婚姻状態は続けていましたが、同じ屋根の下で、話もしない顔を合わせない日々を過ごしました。妻の癌がわかった時私も病院で医師の話を聞きましたが、妻は娘とは話をしても、私は無視されてました。癌治療闘病中もそれはかわりませんでした。治療処置なし後は緩和ケアを自宅でという段階になって、娘のはからいで、同じ部屋で最後の話あいをした時も、それは変わりませんでした。私に直接話をすることもなく、目を合わせることもありませんでした。このまま死んでくれたら、「可哀想だったけど、悲しかない。」と言えるはずでした。でも、亡くなる6日前、妻の為に買ってきた飲料や、看取り介護で状態を確認する私に、妻が直接意思を示しました。手でOKマークをしたり、「すまない」みたいに拝む手つきでした。28年無視され続けた私には、何が起こったかわからない状態です。亡くなる4日前には、痛がる四肢を動かしてケアしていると、その私の腕に痩せた指を絡ませてきました。力無い声で「水」と言うのでストローのついたカップを渡す私の手に痩せた指を絡ませてきて「ここいる?いる?」とまるで少女の様に目をあわせて不安げに私に聞いてきました。「うん。いるよ。どこにもいかないよ。」と応えながら、この感覚は30年前付き合い始めた頃にあったような…愛しい気持ちでした。妻は狡いです。最期に離れていた心を掴んで、そうなった次の日からはもう眠るようになって、意思疎通できず、眠り続け、雷雨の激しく夜に自宅で息を引き取りました。遺体は翌日まで自宅のベッドに安置しました。私は明日の通夜葬儀に備えて、自分の部屋にいる真夜中この曲を聴きました。

ゆき

今でも聴くと口ずさみながら涙が流れる曲。 初めて聴いた時から、ひとり生きてく、という歌詞がココロのどこかにずっと残り、MVを見て更に忘れられない曲になった。 何故そこまでの感情を持ったのか、その時は分からなかった。 この曲が好きなのか、聴きたくないのか、、、 ただ、浜田省吾の曲の話をする時、気になる曲と言ってはいけない、、言えない自分がいた。 夫が逝って10年が過ぎた。 我が身の事となる予感があったのかどうか分からないが、曲の事を口に出すのが、どこか怖い気持ちがあったのは確かだ。  子どもたちは皆巣立ち、今年、彼と一緒に過ごした家から引越した。暮らす環境が変わり、彼がそこに居る感覚は無くなったが、自分に残された時間を精一杯生きていこうと思う。

アヤカ

私は、高校卒業後、家を離れ、自衛官になりました。この曲を聞くと、母にギュッとハグしてもらったことを思い出して、すごく落ち着きます。厳しい訓練や人間関係で苦しくなっても、この曲を聞くと、自然と「大丈夫、明日も頑張れる。」と思えます。高校2年生の秋、自衛官になりたいと家族に宣言しました。沢山話し合って、母と2人で説明会に何回も行って、自分の口からも頑張って説明して熱意を伝えました。その結果、家族は応援すると言ってくれました。しかし母は不安そうでした。いつも自分のために色々考えてくれて、家事をしてくれて、高校3年間眠くても疲れていてもお弁当を毎日作ってくれて...そんな母に私は親孝行どころか迷惑しかかけていなかったと思います。だからこそ「強くなりたい。誇りに思って貰えるような立派な娘になりたい。」と思いました。もう泣かせたくない。心配をかけたくない。でも、いつまでも母の可愛い娘でいたいです。これからも頑張ります。