-
僕は、彼女と小学校が同じで幼馴染です。中学校、高校では違った道を進みました。大学も違ったのですが、合同コンパがあり、そこで偶然にも彼女と再会しました。僕のこころに無意識のうちに彼女が住んでいることを感じました。僕から付き合って下さいと告白しました。彼女は家が厳しいので男の人と付き合うことはできないと僕の告白にNOを言い続けました。今の時代に照らし合わせてみると、待ち伏せなどの少々ストーカー的なことを行い、彼女のこころを僕のところに引き寄せました。しかし、僕と彼女の楽しい学生生活は有限です。僕は関東に、彼女は地元に就職し、遠距離恋愛がスタートしました。今と違って電話代が高くなるため、近況報告は手紙でした。僕が彼女に送った手紙の最後には必ず「いつか、いつか、もうすぐ」の文字を添えておきました。
浜田さんの楽曲の、いつかもうすぐの歌詞の続編があれば、僕の今と同じになっていて欲しいです。
遠距離恋愛開始2年目で、彼女は僕の妻になり、二人の娘に恵まれ、決して裕福ではないですが、家族みんな幸せに暮していると。
薩摩おごじょ
2024/08/03
-
現在58歳男性です。
浜田省吾さんの曲を聴くきっかけになったのは高校1年の時。その時は浜田省吾さんの曲と言えばテレビCMで流れていた『風を感じて』と『ラストショー』位しか知りませんでした。高校1年の時、たまたまNHK FMラジオの『サウンドストリート』(DJは確か烏丸せつこさん?)に浜田省吾さんがゲスト出演していて、トークと今では伝説の日本武道館のライブ音源を聴いていました。
自分自身、浜田さんの曲が殆ど詳しく無く当時まだライブレコード『ON THE ROAD』発売前に何曲か聴いていたら『終りなき疾走』がラジオから流れ、
自分の中に衝撃が走り、『メチャクチャカッコイイ!浜省最高!!!』となり、後日ライブツアーが有ると知り、チケットをゲットしてライブを見る事ができました。(浜省ライブ初) あれから40年以上が経ちましたが、昨年のアリーナツアーを21歳になる息子と見る事ができ、(自分自身浜省ライブ6回目、息子は初)未だに余韻に浸ってます。
akira R302
2024/08/03
-
私の思い出の曲は「日はまた昇る」です。
2001年に発売されたこの曲が入っているアルバム「SAVE OUR SHIP」
正にこのタイトルのように私の気持ちも助けて!
というような心境の時でした。
当時、このアルバムに入っている
「日はまた昇る」を何度も聞いて気持ちが救われました。
あの時は社会全体的にもとても暗いイメージだったような気がします。
結婚して6年。子供3人、5歳、3歳、1歳の幼い子供を抱え育児に追われていた時です
主人の会社が倒産してこれからの生活がとても不安で
幼い子を前に途方にくれてしまいました。
主人も新しい職を探していましたが
中々うまくいかず
イライラや不安が募るばかりで喧嘩ばかりの毎日だった気がします。
そんな時に「SAVE OUR SHIP」が発売されたのです。
最後に入っている曲「日はまた昇る」を聴いた瞬間
私の心に染み渡り次第に気持ちが救われていきました。
省吾さんは全てを分かっているのだな
省吾さんに優しく諭されているような気持ちになりました。
誰もが皆自分の人生と闘っている。
不安からくる焦りで主人を責めるような事しか
出来ない自分はなんて未熟なんだろうと恥ずかしくなりました。
この曲を何度も何度も聴いてこの不穏な時代を
乗り越えました。
今でもこの曲は私の支えとなっています。この年にツアーで私の地元のFM局に省吾さんが
ゲストで出演された時
好きな曲のアンケート…だったと思うのですが
私は「日はまた昇る」と書いてこのエピソードも添えて投稿しました。
そしたらこの投稿をパーソナリティの方に読んで
頂いてとても嬉しかった思い出があります。
この時のアンケートの1位が「日はまた昇る」でした。
省吾さんがこの結果をとても意外でしたと驚いて
いたのがとても印象的で良く覚えています。
にっちゃん
2024/08/03
-
18歳の時に付き合ってた彼とのドライブデートで必ずかかっていたのはハマショーのアルバム。ハマショーの曲しか流れなかった。私がハマショーのファンになったのは彼がきっかけです。
そんな彼とよく夜景を見に行きました。海で見る夜景、山で見る夜景、街で見る夜景。夜景を見ながらたくさんの綺麗な星と輝く月を見ながらラストショーが流れた時は、まさに「星は君の物で月は俺の物だった」というくらい、私達の世界でした。この時はラストショーと同じようにお別れするとは思いませんでした。たくさん涙を流し思い出になるのに時間はかかりました。でも、彼からもらった世界、ハマショーの音楽はいまでも私の心の中にあり、色褪せる事はありません。
かおり
2024/08/03
-
社会人になり 初めての出張が九州から 岡山県でした。そして、出張先の先輩と今度は広島県へ。 移動中 車の中でかけてくれた 曲がGear Up 409でした。「広~島まで~もうあと. . . .」
どのルートで通ったのかは覚えていませんが、 まぶたに浮かぶのはあの瀬戸内の島 影 穏やかな夕凪の海 、を思い浮かべながら ワクワクしていたのを今でもよく 覚えています。 当時 まだ二十歳前で 初めて見る景色に感動してました。旅館での食事も 最高でした。 今でも車での移動時にはよく聞いている思い出の 曲です。
Z
2024/08/03
-
F.Cに入会して35年。浜田さんの音楽を通して友達も出来てライブに通いながら色々な事が思い出されます。その中でも1番印象に残ったのは仲良しの友達ご夫婦だった旦那さんが長年癌の治療と戦って亡くなったと連絡が入りました。私は埼玉なのですが、北陸に住む彼女の家まで弔いに行きました。お通夜の会場は省吾の歌が流れていて痩せ細った彼女が精一杯喪主を勤めていました。彼女の旦那さんはホテルで料理長を生前勤めており、私もそのホテルに泊まりました。彼女から連絡があり、火葬場に行く前にホテルにも寄るから見送ってと言われ身内でもない私は部屋からお見送りしようと思ってたらホテルの従業員さんに是非車の鯖まで見送りましょうと誘って頂き車の到着を待っていたら従業員さん皆んな作った横断幕に感謝の言葉があり、ラジカセから流れるCDは「星の指輪」をずっとリピート。
私は泣くつもりなかったのですが、どれだけこの仕事場で頼りにされ、慕われていたかを知り、私も彼女につられてもらい泣きしてしまいました。「星の指輪」を聞くとあの日の事が今でも鮮明に思いだします。
えり
2024/08/03
-
1976年秋、当時大学1年生でフォーク部の友達の家に遊びに行って、そこで聴かされた「路地裏の少年」に心を奪われて、それから48年間ほぼ毎日浜田省吾さんの曲を聴いてます。そして俺の人生にいろいろな楽曲が影響を与えてきています。
今回はその中でも「夏の終わり」のエピソードを書きます。23歳からアメリカ生活を始めて7年後に広島に帰って来ました。それから仕事や地域、子どもや家族のために走り続けて来ました。3年前に心臓の不調に気づき一昨年夏心臓の手術をしました。その時に走り続けてきた全てをペースダウンして将来を見つめました。そして66歳を迎えた現在サンセットが綺麗なビーチハウスを手に入れました。
「夏の終わり」の歌詞は、俺の人生に重なるところが多くあり、これからはそこで、「もう誰の心も引き裂くことなく、手に入れたものみんな失ったって構わないから只々残された僅かな時間を静かにひとり暮そう思います。」大好きな潮風と波の音を枕にしてひとり暮らしていきます。
明木一悦
2024/08/03
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
私の思い出の曲は「君が人生の時・・・」です。私が中学生の頃、同じ「君が人生の時・・・」という番組名で浜田省吾さんはラジオ番組を持っていました。日曜日の夜9時、軽快に喋る省吾さんの話に笑ったり頷いたり、楽しいひとときでした。最初と最後に流れる「君が人生の時・・・」を聴きながらいろんな事に思いを馳せました。あれから40年近くたった今でも、あの時に省吾さんが話していた事柄が私の根底に流れているような気がします。