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主人と昔付き合い始めた頃、主人は曲を作ったりしていました。「私の事も詩を書いて」とお願いすると何日も何日も悩み続け、やっとワンフレーズだけ出来たと見せてくれた歌詞が「君をこの手に抱きしめた時、初めて誰のために僕が生まれてきたのか分かった」と。「なんて素敵な歌詞なの?もう、大好き~❤️」と喜んでいたら、「ウソウソ浜省の歌だよ、俺には書けない」って。省吾アニキの事はその頃、勿論存じ上げておりましたが、まだあまり曲を聴いたことがなかった私。でも、その歌詞を見ただけで、キューン、省吾アニキのファンになってしまいました。そんな素敵な曲を作る浜田省吾様を教えてくれた主人に感謝です。
ちゃこりん
2024/08/22
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二十代前半から約4年間お付き合いしていた彼がいました。
2人とも浜田省吾さんの大ファンでな、何度も一緒にコンサートに行ってました。
彼は19歳の時に交通事故で大怪我をし、十数回手術を繰り返していました。
足が少し不自由で、お付き合いしてからも入退院を何度かしていました。
怪我のことや事故の時の問題が色々あり、周りからはあまり賛成されていませんでした。
それでも2人で支えて合い、将来のことも考えて過ごしていました。
3年半がすぎた頃、些細なことで口論になり私が「別れる?」と軽く言うと、彼からはその言葉を待っていたかのように「じゃあ別れよう」と言われました。
それから私は何度も冗談だよ、嘘だよ、やりなおそうよ、と言っても全く聞いてくれませんでした。
別れたい理由も教えてくれませんでした。
そんな中、友人の結婚式に2人とも招待されていて、気まずい中2人で出席しました。
車に乗せてもらった車内で、彼女はブルー、がかかってきました。
すると、♪痩せたね横顔♪、の歌詞を、♪痩せたねヨウコの顔♪、と私の名前にして笑って歌ったのです。
私は彼との別れ話が出て、この日までの約1か月で10㌔近く痩せていたのです。拒食症になり苦しんでいたんです。ショックでした。
結婚式の帰りには彼の前方不注意で交通事故に遭いました。もう全てが最悪でした。
その後、私と別れたい理由がわかりました。
彼のお家に私の物を取りに行った時、彼の日記帳が机の上に置いてあるのを見ました。
ダメだとわかっていたのですが、みてしまいました。
そしたら19歳の時に入院していた時の看護師さんと付き合っていました。彼女は結婚して2人の娘さんがいました。いわゆる不倫でした。
彼に問い詰めると、旦那様と別れてもらって結婚すると言われました。
その帰り何もかもがわからなくなり車を走らせながら、ダムに来ていました。
死んでしまおうとずっとダムの底を見ていました。
もう30年近くたちますが、いつ聴いてもそこの歌詞を変えて歌う私がいます。
浜田省吾さんのCDを全部返してもらえず、また買い直しました。
辛い思い出が多い曲がたくさんあるんですが、やっぱり浜田省吾さんがいちばん好きなんです。
あれから2人…
2024/08/22
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ある日のライブに夫と一緒に参加しました。
そして会場に入ったらびっくり!!
確実にステージから私達が見える位置。
夫も私も大興奮でライブを楽しんでました。
そして、まさかの星の指輪の前奏が流れ
思わず2人で顔を見合わせ本当に驚きました。星の指輪は私達の披露宴の時に友人達が
ギターを弾き、みんなで歌ってくれた
思い出の一曲なのです。『披露宴だから星の指輪が聴きたいなぁ』と
最初は軽い気持ちで友人達にリクエスト
したのです。当日はいつものように、みんなで省吾さんの歌を
カラオケで歌う感覚で高砂から一緒に
口ずさんで楽しんでいたら…
何故か隣の夫が大号泣、むせび泣いていたのです。
みんなが一生懸命に慣れないギターを弾いたり
歌を歌ったりする姿と歌詞の素晴らしさに
感動して思わず涙が止まらなくなったと
涙の訳をあとで教えてくれたのです。あの時の会場は夫の涙に皆が驚くとともに
大きな感動と大きな拍手で私達を
包んでくれていました。いつかライブに行って、できたら2人で
星の指輪聴きたいな…ってひそかに思ってから
7年後のあの夜の日に
まさか、聴けたらいいなと思っていた
星の指輪を省吾さんがあんな近くで
歌ってくれるだなんて…
間違いなく正面に私達2人の姿が
省吾さんの視界に入っていたと思います。
これは省吾さんからの結婚祝いなのかも…
本当にそう思いましたし
こんな場面、夢でも見ないとも感じました。
もう、このまま時間が止まってほしい。
本当にそう思いました。
そしてその時、頬を濡らしたのは夫ではなく
私の方でした。夫と2人、省吾さんが間近で歌う星の指輪…
あの時の場面は今でも忘れることのない
大切な大切な2人の宝物なのです。
らんちゃん
2024/08/22
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妻と知り合ってから、彼女も浜田省吾が好きだということがわかった。
なんと1991年の みちのく杜の湖畔公園野外コンサートにも参加をしていて、彼女は一番前のブロックで浜省と一緒に歌っていたと自慢げに話してくれた。自分は人もまばらな最後尾のブロックで、周りを気にせずノリノリでダンスを踊っていたことを話した。
その時まだ出会っていない彼女と同じ時間を共有していたなんて。アンコールのラストダンスを聞いていたなんて。
そして、コンサートで打ち上げられた綺麗な花火と、その後に登場した「ハマショーは…」を連呼する男性の説明、帰りの大渋滞は今でも一緒に思い出すことができるエピソードです。
みちのく杜の湖畔公園
2024/08/22
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中学生の時、ラジオを聞いていたら流れて来た曲。深夜だったからウトウトしながら聞いていたんだけど、この曲でバチっと目が冷めました
省吾さん流で言うと稲妻が走った感じ
その時DJが浜田省吾って人だと知って
書店へ行って調べてみたり、ラジオを聞いたりしたけど、この曲に会えなくて、
中学生だったからお小遣いが少なくて、なかなかレコードを買えないんだけど、やっとお小遣いをためて、レコード店へ行った
曲名がわからなくて、浜田省吾のレコード数枚とにらめっこ
とうしよう。。。あの曲が入っているのはどれだろう?
と、悩む事数十分
お店のお兄さんが声をかけてくれた
「浜田省吾好きなの?何か探してるの?」
私が覚えてるだけのフレーズを言ったら、
「あーそれならこのアルバムだよ」
って君が人生の時を渡してくれた。
「浜田省吾って良いよね
僕も好きなんだよ」と言って
これおまけ
お店で貼ってたからちょっと汚れてるけど。。。
と、省吾さんが黒いスーツでギターを弾いてるポスターをくれた。お礼を言って急いで家に帰りました。
私が衝撃を受けて、省吾さんと出会った曲。
優しいレコード店のお兄さんを思い出す曲です。
YUKIN
2024/08/22
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地区の子供会行事で観光施設へ出かけた際、保護者の方々とはあまり面識なく、他のパパさん達とも交流ないまま時間だけが過ぎていた。
そんな中、喫煙所にてスマホ見ながら喫煙していると突然着信が入る…着信音がこの曲で響きわたる。
「浜省のファンなんですか?」と、曲を聴いた一人のパパさんが話しかけて来る。
そこからは、話が繋がり、帰りのバス車内でも笑顔で意気投合、浜省の話題で盛り上がった事を思い出します。今でもそのパパさんとは交流があり、一緒に食事したり、浜省のコンサート行ったりと、この曲がきっかけで楽しいお友達が出来ました。
レッドサンライズ
2024/08/22
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
バブル末期、松山。
社会人になったばかりの僕は、同級生の営むバーへ頻繁に入り浸っていた。そこで同い年の東京出身の個性豊かなヤツと出会う。どうやら勘違いでこのバーへ来るようになったらしい。僕たちは、会うたびにくだらない話をして酒を飲むようになった。そして、次第に僕やバーのオーナーの同級生や、さらに友人たちと店の外でも一緒に行動をするようになった。
何事にも緩かった当時は、道後公園で花見の宴会をして、煙をモクモクと出しながらバーベキューをしても平気だった。
持ち込んだギターで夜中に浜田省吾の歌をみんなで大声で叫んでもお咎めなし。なかでも印象的だったのは『ラストショー』。腕に覚えのある友人にかかれば、アコースティックギターでもイントロが玄人みたいに聞こえる。
花冷えで少し震える中、寒さを吹き飛ばしてくれてやっぱりいい曲だなと思った。もちろん、ヤツも同級生も僕も肩を組んで歌った。みんな若かった。
ある日、ヤツから転勤することを聞いた。『東京を通り過ぎて盛岡に転勤することになっちゃったよ…』なんと遠いところへ。想像もつかない土地へ。寒そうだ。
一風変わったヤツだが、実は一流大学出のエリートだったのだ。面白い仲間が一人遠い土地へ行ってしまうんだな、と淡々と受け入れるしかないんだよな。
金融機関の異動は急だ。時間をやりくりして見送りには行こう、と当時はまだ航路が残っていた松山ー神戸のフェリー乗り場に行った。花見に集まった仲間たちが何人も来ていた。
ヤツは車をフェリーに乗せて去って行った。僕たちは船が見えなくなるまで見送ろうとずっと駐車場に残っていた。やっぱり船での別れは寂しい。汽笛がそんな気持ちを増幅させる。柄にもなく泣きそうだ。
さあ、波の少ない港から北東に向かって舳先を切り、じきに見えなくなるぐらい離れた時、『みんなサヨナラ〜』という絶叫が海風に乗って聞こえてきた。
うそっ!あんなに離れているのに、と思うが先か、『うぉー、元気でなー』と声も枯れんばかりにみんなが声を揃えた。
サヨナラっ、てあの花見の時の『ラストショー』じゃないか、とばかりに暗がりの駐車場で仲間に見られないようにこっそりと涙を拭ったのも古き良き思い出。今でもみんな仲間です。