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18歳、田舎の短大で寮に入っていた私は休みの日もすることがなく4人部屋のベッドでラジオ等を聞いたりしていることが多かった。
ある日さすがに毎週聞いているラジオのチャート番組にも飽きて、隣の寮生の部屋でゴロゴロしていた。
その部屋の子はラジオではなく1本のカセットテープをエンドレスでかけていた。
聞いたこともない曲だったので気にすることもなく他人のベッドに寝っ転がっていると…突然、それは本当に突然不意に私の心にガンっと入ってきた。
その曲だけが聴こえた?心に届いた?
あの時のことを言葉にするのは非常に難しい。
「なんて曲!」聞いたことのないかっこいいメロディー「これだよ!」
友人が教えてくれた曲名は“東京”
「次は歌詞をちゃんと聞きたい。だってあの曲に合う歌詞っていったら…」
カセットはオートリバースでA面に戻ってきた。
“東京”が始まった。
「そうだよ。この曲にはこの歌詞じゃないと」
詞の一言も浮かんでないのに私が心の中で感覚として作ろうとしていた詞にピッタリはまった。
「私、こんな曲が聞きたかったんだ。こんな曲が好きだったんだ」
「やっと巡り会えたね」
それからは落ち着いて他の曲をゆっくり聞いた。
私史上最高のアルバム。
多分18歳というあの時期、あの時代、あの瞬間でなければロックを知らなかった私は彼の歌をキャッチすることは出来なかっただろうと思う奇跡なのです。
SEN
2024/08/13
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初めての社会人となり、研修期間は憧れの渋谷。
東京暮らしを僅かに楽しむ日々。
研修が進むにつれ、同期がどんどん配属が決まる中、地方からただ一人出てきた私は最後の一人に。
遂に上司から話があり、決まった先は広島の火力発電所。
選んでいる場合では無いので、言われるままに配属先で奮闘の日々。
建設現場も初めてなら、イカつい職人とのやり取りにワガママなお客様との交渉。
そして、新人ならではの残業と目まぐるしい毎日でした。
ただ、好きな車だけは持って行っていたので長期休みとなれば、広島から名古屋へくるまての行き来。
帰る時はいつも夜でした。
高速道路を走りながら大阪の吹田に来ると、直線に街路灯が綺麗に並ぶ区間があり、そこに来ると必ず
「ON THE ROAD」を流して自分を鼓舞していました。
そんな生活もやはり無理がたたり、体を壊して転属となりましたが、それでも大事な思い出です。
生活の場が「竹原市」と、浜田省吾さんの出身地だった事も、思い出深いものとなりました。
今もこな曲を聴くと必ず思い出す自分の歴史の一部です。
当時お世話になった方々、淡く恋した親方の娘さん。
皆んな元気にしてるかなぁ。
と、思いながら。
kenbo-
2024/08/13
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母のお腹にいる時から生まれてからもずっと家の中でも車の中でもいつでも浜省が流れていました。小さい頃はまた浜田省吾ー?とか、いつも浜田省吾ばっかりー
と文句を言っていた気がするのですが笑。そんな中でも毎回「この曲好き!!」
そして母に「13番がいい、13番聞きたい」とリクエストをしていたのがThe History of Shogo Hamada“Since
1975”
のアルバム13番 「星の指輪」です(*´꒳`*)当時は歌詞の意味はわからなかったけどメロディーが大好きでした♡♡
小学校低学年くらいだったと思いますが、これが私の浜田省吾さんを好きになるきっかけの曲でもある思い出の1曲です♪♪初めてコンサートで星の指輪を聞いた時は当時の事を鮮明に思い出してとても懐かしく思いました。そして心の中で
″あ、13番だ″と(*^^*)
今では私も母と同じように浜省ばかり聞いています♡
その内子供が生まれたら同じようにまた浜田省吾ー?と言われ続け、星の指輪が好きになってくれたら嬉しいなあと思いを馳せています♡♡
Marie
2024/08/13
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その日の朝、三月三十日、妻と一緒に聞いた医師からの言葉。
「肺がんが見つかりました・・・一年後の生存率は7%です。その7%になるよう、これから治療をしていきましょう・・・」
前年の暮れに“百日咳”、と診断されて寝込んでいた妻が、三か月経過しても一向に回復しなかったため、別の病院で再検査した一週間後、「肺がん」という結果でした。
妻は無言のまま、そのまま崩れ落ちました。その半年後の九月二十八日、痛みから解放された妻は永遠の眠りにつきました。
妻43歳、娘18歳、息子11歳、わたしは48歳の秋でした。
通夜に、「木霊」を流し、葬儀に、「初秋」で妻を見送りました。娘は進路を看護師、保健師へ。息子はしばらく高校生にあがるまで不登校が続きました。
妻との出会いは、彼女が短大を卒業し、わたしが勤務する会社へ4月に入社したことから。
1986年、総務部の彼女は21歳、営業部のわたしが26歳。その夏が過ぎた頃、恐らく総務の特権でわたしの自宅の電話番後を調べたのか、彼女から突然のデートのお誘い・・・彼女の友人が勤める水族館へ、招待券をもらったのでご一緒に行きませんか? と。
入社時に彼女を見かけて、ちょっとだけ関心をもっていたわたしには、大学を卒業してから、交際する女性もいなかったので、すぐに、OK!だよ、と返事。
初デート。
太陽が傾く、夕暮れ。水族館から帰り際、埠頭にクルマをとめる。助手席の彼女が水玉模様のトートバックから出したTDKのテープ。
「弟が好きな歌手の歌・・・浜田省吾さん、っていうんだって・・・」、と彼女。
「あ、そうなんだ、ちょっと聞いたことあるかな、・・・たしか、風を感じて・・・だったかな、僕が聴いた曲」と、わたし。
彼女は、テープをアクリルのカセットから出して、
「・・・J.BOYっていうレコードをカセットに録音したんだけど、聴いてみる?」
・・・ A NEW STYLE WAR・・・!!!!
テレビのCM以外で聴いた初めての浜田さんの曲は、今から思えば、世界の技術がどんなに進歩しても、どんなに知能が高まろうとも、平和の裏に戦争への抑止のための武器を装備しあうことを止めない、浜田さんの 「A NEW STYLE WAR」。
「かっこいいね~」・・・わたしの第一声。
妻との出会いが、浜田さんの曲との出会い。その日から、浜田さんの曲をすべて聴きだしました。四年後、二人の結婚披露宴に、「愛しいひとへ」、「晩夏の鐘」で結ばれました。
今年は、妻の十七回忌。
十年前の七回忌を迎えるときに、不意に気付いたことを短歌に詠みました。一周忌、三、七、十三、割り切れぬ君への想いは二乗、三乗
煙草も吸わず、食事にも気をつけていた栄養士の資格を持つ妻が、なぜ癌に冒されたのか、いまでも割り切れない気持ちをいだいています。
お陰様で、娘は結婚、出産、離婚、再婚と歩み、息子もひとり立ちしてくれました。
数年後、妻の二十五回忌でようやく素数の回忌でなくなることで、気持ちは割り切れるでしょうか。
それまでには、息子も彼女と結ばれて欲しいと想います。息子が披露宴をしてくれたならば、その時は、披露宴をしなかった娘の分まで、浜田さんの「夢のつづき」を父として息子の前で歌いたいな、と想います。
大嶽 浩
2024/08/13
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
100%FAN FUN FAN 2017 台風🌀の心配をしながらコンサート(名古屋公演)に出かけました。質問コーナーがあったのですが、質問ではなく、リクエストをしました。省吾さんのドラムを叩く姿が見たくて…。
スタッフさんの(楽器やコーラス)担当をシャッフルして、演奏旅行をお願いしたら、サビの部分だけこの曲を歌ってくれました。偶然なのか、思いが通じたのか…。とにかく、めちゃ心臓がバクバクしたのを覚えています。
久しぶりのFAN FUN FAN です。今度こそ、省吾さんのドラム姿と演奏旅行をお願いします💜