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父が癌で亡くなったのは、2008年。
私の誕生日の翌日が命日。
家族が
「あんたの誕生日避けてくれたんやね」
と言ってくれました。
父が生きてた頃、父の知り合いの
私自身面識が無い知らんおっちゃんが、
「お父ちゃんそっくりやなぁ」
とよく言われた。
本当によく言われた。
父を亡くした後、この曲を聴いて
泣いた日々を過ごしました。
何も親孝行も出来なかった。
私達子供を本当に大事にしてくれた。
父親は大変苦労したから、
余計に子供を大切にしてくれた。
時折この曲を聴くと泣けます。
KAGOME
2024/08/15
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1986年に、僕は、19歳。大東社という、印刷屋で、働いてた頃、尾西ユニーで、予約して、アルバムCDを、買いました。サブタイトル 頼りなく豊かなこの国に 何を賭け 何を夢見よう show me your way I am a J.BOY と、メインストリートが、印象的な、浜田省吾さんの、ニューアルバムJ.BOYでした。射撃音が、イントロの、ニュースタイルワーが、カッコ良かったです。当時、カーステで、愛車カローラⅡで、よく聞きました…その後、カッティングシートで、J.BOYステッカー貼っております…オフィシャルサイトで、許可取りました。ありがとうございます…今も、自分に、合った曲です…
安田均
2024/08/15
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To say I’ll make your dreams come true
would be wrong
But maybe darlin’ I could help them along40年前、ものすごくかわいい娘(こ)と知り合って、
「こんな娘と付き合える男(やつ)は幸せだろうな… まっ、俺とはレベチだ、吊り合わない」
と思っていた娘に、上の“もうひとつの土曜日”の一
節を用いて告白したら、まさかのOK‼︎
今まで生きてきた中で最高の時間を過ごすことができました
結婚したのは違う女(ひと)ですけど…
でも今一緒にいる女房は、誰よりも愛おしい女です
zappi-kun
2024/08/15
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高校生の時、一目惚れで恋におちた男性(ひと)がいました。後につきあうことになるのですが、日に日に好きになりすぎて、純粋な私はこの男性(ひと)と結婚するものと思っていました。お互いの両親もきっとそう思っていまし
た。
そして高校卒業。ずっとその男性(ひと)のそばにいたかったのです。でも、当時の私は家事が一切出来ず、迷惑をかけてしまう。嫌われたくないと言う思いが強く、うまくいく自信がなかったので別々の道に進みました。それでも未熟な私はずっと続くと思っていました。
二十歳になる頃、彼から、好きな人が出来たと別れを告げられます。その彼女は、彼の転勤に着いていったことをあとで知りました。
あの男性(ひと)と結婚できない現実を受け入れることが出来ず、生きている意味がないと、この人生を終わらせる決意をしましたが、未遂で終わってしまいます。
その男性への想いはますます強くなり、あきらめる術が見つかりませんでした。そんなとき、自分の体を汚してしまえば、もとには戻れないと、あきらめざるを得ないと思い、名前も知らない男に体を預け、毎晩酔いつぶれて、後悔の毎日を送るしかなかったのを覚えています。それでも想いは変わらなかった数年後、友達として、相談など連絡がとれるようになり、私はそれでも、繋がってられるなら幸せでした。
そしてその男性はあの時の女性と結婚すると連絡してきました。私も10年後結婚しました。あれから40年、58歳になりました。今では月1くらいの頻度で電話やLINEで、当時の話をしたり、相談したりの関係です。
この曲を初めて聴いた時、あっ、私の曲だ❗️と鳥肌が立ちました。
私は今でも彼を愛しています。
あーりー
2024/08/15
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
この楽曲が、発売される少し前に、母が亡くなりました。
母は、私が生まれた時から腎臓病を患っており、透析治療を受けていました。限られた時間の中で精一杯生きていたと思います。それだけにこの曲の歌詞にある与えられた時間の中を精一杯生きた君という歌詞や、いつでも家族の港だった、と言う歌詞、当時自分の中で、この歌の歌詞のストーリーが母と重なって、亡くなって2.3ヶ月経った車の中でこの歌を聴きながらふと目に涙があふれました。今でもこの曲を聴くと母の事を思い出します。