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2024.8.12 今日の広島vsDeNA戦、3人のショーゴがヒーローインタビュー!私の中では4人目のショーゴのBaseball kid’s Rock が頭の中で駆け巡りました!広島県民で良かったなぁ🎶
MiuNufo
2024/08/12
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今から38年前の大学生(二十歳)の頃、一般教養の「哲学」の授業を選択していた。
しかし、3回生への進級に苦労していた俺は、他の単位取得を優先しなければならない状況から、一度も授業に出席できていなかった。
そして、いざ期末の単位試験の日、教授からは、「今日初めて私の顔を見る学生もいると思いますが、そういう人は、まず単位を取れないと思ってください」の一言。
記述試験は2問。1問目は、まったく分からない哲学論。そして2問目は「あなたにとって、哲学とは」でした。
半分諦めかけた俺は、意を決して、”路地裏の少年”の2番の歌詞を答案用紙に綴っていった。「アルバイト、電車で横浜まで」を「広島まで」に変えて。
答案作成中、俺の後ろにずっと教授が立っていて、非常に書きづらかったが、そんな事に構ってられないと夢中で書き綴った。
結果、”可”だったけど単位をもらえ、無事進級できました。
省吾さまさまの懐かしい思い出です。
中務裕文
2024/08/12
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8年ほど前に、私をずっと支えてくれた家内は、大学生の娘と高校生の息子を残し旅立っていきました。
当時、私は、バリバリの昭和の親父で家庭の事は、家内に
任せっきりで、そんな私のせめての「罪滅ぼし」は、子供を実家に預け、年に数回、二人で旅行に行くこと、浜省のコンサートに参加する事でした。そんな私の相手をしてくれた家内が亡くしてからは、感謝の言葉を言えなかった事、あの頃、こうしてあげれば良かったという後悔ばかり。そして、今でも、車の中、誰もいない場所では、
家内の名前を呼ぶ自分がいます。この歌は、家内に対する
永遠の苦しい片想いの曲です。
オールドファン
2024/08/12
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1979年4月、1浪して九州の田舎から東京の大学に進学しました。その際、父親から言われたのが社会勉強してこい、女性に迷惑かけるな、必ず4年で卒業して故郷に戻る事でした。大学生活にも慣れた頃、短大の門近くで声を掛けた女性と半同棲生活を送るようになりました。
私は、卒業してからも支えてくれる彼女とずっと東京で暮らしたいという想いで、父親が東京に残る事を認めてくれそうな業種への就職を目指して勉強とアルバイトに励みました。でも結果は、ことごとく就職試験に失敗し、彼女と東京で暮らすという約束を果たせず「都落ち」で故郷に戻りました。今でもこの曲を聴くたび、若くて一生懸命だったあの頃を思い出します。
オールドファン
2024/08/12
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A PLACE IN THE SUN
この歌の思いでは、何と言っても88’年の渚園。
この歌を聞く度にあの日の事を思い出す。あの日、いつ何をしていたか、どんな会話をしていたか、何を考えていたか。隣にいた君の横顔も今も鮮明に思い出せる。海の中道、横浜スタジアムの A PLACE IN THE SUNには行かなかった。今思えば、海の中道、横浜スタジアムも行けば行けたのに。なぜ行かなかったのか・・・
そのこともあり、「渚園は絶対に行くんだ」という思いで、当日出勤日だった会社から有休を取って参加した。その年の5月GW 渚園の下見に出かけた。
広い芝生広場、周囲は浜名湖 風が気持ち良い。
芝生に座って、カセットテープの曲をかけてコンサート当日の事を思った。この芝生を埋める人が全国から集まるのか。どんな日になるのか。
この夏は雨の日が多く寒かった。前日の夜遅くまでに雨が降っていたと記憶する。当日 浜松駅の前のうなぎ屋で昼ご飯を取っていた時、もう一つのハマショー 浜松商業が甲子園で(準決勝だった気がするが)戦っていた。負けていたのを覚えている。
当日のコンサートは素晴らしかった。始まりから終わりまで。総てが。今思い出しても。
参加して良かった。心からそう思う。あの日の事は永遠の思い出となった。「伝説のライブ」という言われ方で表現される渚園。
確かにそうだが、素晴らしさと同時に思い出す事がある。
DVDにも、映画にも映っていない風景。
参加した人なら見た(はずの)風景だけど、コンサートの後のJR弁天島駅までの帰り道 道や民家の塀の上に置かれた(捨てられた)空き缶、空き缶の山。
素晴らしかったコンサート 余韻が半減してしまった。あれから、何度か渚園へ出かけた。
その後渚園は、あの日の地形から少しかわってしまった。
違う「聖地」になってしまった。
不思議な事に、その後、渚園へ車で数十分で行けるところに住むことになった。
ペンとパン
2024/08/12
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今から15年くらい前、家族4人でハワイに旅行中、レンタカーでドライブを楽しんでいるときのことです。車内では、ずーっと浜省のCDをかけていました。この曲が流れ出したと同時に、小学生の子供達(息子と娘)が揃って得意げに歌い出しました。そのときに、「お母さん、この歌、歌えないの?」と、言われ…。知らず知らずに歌を覚えていたことにびっくりしましたが、浜省の歌を一緒に楽しめる日がきたことがとても嬉しかったです。
hiro 530
2024/08/12
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ON THE ROAD88'の「路地蔵の少年」2つの思いで
1988'8月20日 A PLACE IN THE SUN 渚園
その年、ファンクラブを通じて知り合った女性と渚園にいた。始まる前、オープニング曲当てクイズをした。
自分は「路地裏の少年」ではないか?と言った。特別な理由があるわけではないが、記念の野外コンサート デビュー曲を持ってくるのではないか?との理由から。
A PLACE IN THE SUNが流れ終り、ステージを覆っていたシートが剥がされた。次に流れてきた曲は「路地裏の少年」だった。当たった。ちなみ、オープニング当ては曲当てはこの時しか当たっていない。1989'2/7大阪城ホール
88'の最後は確か当初確か名古屋3daysだったはず。筈というのは、(ここからが、36年前の事なので少し記憶がぼけるけど、記憶間違いだったらスミマセン)名古屋の前の大阪公演が急遽公演中止になって、名古屋の後に再公演という形で開催された。
今なら、SNSでなどで公演中止がリアルにわかるが、その当時そのようなものはない。新幹線に乗って大阪城ホールへ行き、会館で中止・延期を知った。その夜、予約していたホテルに泊まって翌日帰宅した。
その延期公演が88'のラストになった(と記憶している)
アンコールのラスト、他のコンサートでは演奏されなかった「路地裏の少年」が1曲追加で演奏された演奏された。(多分)延期に対しての省吾さんからの「ごめんね」という気持ちだったと思う。
この曲がかかった瞬間に、延期のについては許せた。
ペンとパン
2024/08/12
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
あれは二十歳の頃。田舎町の大学生でお金はないけどやりたいことだらけ。海辺の町から山に囲まれた大学で、毎日仲間と将来を語り明かしたり、大好きな絵を描いたりしていました。
学園祭のある秋の昼下がり、いつもの坂道を登って、アマチュアバンドのライブ会場に向かっていたら聴こえてきたのが「家路」でした。
FMをエアチェックしてすりきれそうになるまで聴いていた浜省の曲。まだ発売されてさほど日が経っていないのに、浜省かと思うくらいの声、ギターの音色。思わず走って会場に飛び込みました。
今でもときどき口ずさんでいます。もう、おばあちゃんになり、髪も白くなったけど、この曲は大学生の頃のままで歌える数少ない曲です。