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「窓のあかり、まるでダイヤモンド」
コロナのころ、このフレーズを聴くたびに涙してました。
今でも、最高の一曲です。
しばちゃん
2024/08/10
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季節が変わるたび また 同じ季節が巡って来るたび
“去年の今頃は・・・” とか “何年前の今日は・・・”
などと 過去の記憶と今を 並べてみる癖が私にはある
そして 今年も不思議な感傷で ぼんやりあの日のことを想っていた1年前の夏
おなかの中の子供に聴かせた 祭り太鼓の音
「来年は3人で この祭りを見に来るんだなあ
この音 覚えているかなあ」とつぶやいた彼の言葉に
妙に 穏やかな幸せを感じていた
山車の行列を挟むように並ぶ 商店の軒下に沿って
人波の隙間を先へと歩く
滑って転ばないよう 人に押しつぶされないよう
彼は 私をかばいながら・・・そして その通りの夏がやって来るはずだった
だけど 月日は 二人の想いに少しずつ ズレを生じさせた
3人であの太鼓の音を聞くことは 私にはとても楽しみで 大切なことだったが 彼にとっては それは さほど重要な意味を持たなくなっていた「田舎でゆっくりして来いよ。夏祭りは来年だって行けるじゃないか」
そう言う彼の言葉が放つ雰囲気には
なんだか “NO” と言えない強い押しを感じた
あまり気が進まないままに 私は 田舎でゆっくりしているふりをしながら
落ち着かない何日かを過ごした。
まさか その頃 彼が見知らぬ誰かと 一緒に過ごしていようとは思いもしないで・・・2週間後 ノルマを終えたような気分で 私は東京へ戻った
空港の到着ロビーで彼は待っていた
久しぶりに 3人が出会えたというのに なんだか二人の間には 子供を挟んで まるで今までと違う空気が流れているのを感じた
今でも この時の感触を言葉で表現するのは難しいのだけど・・・自宅に戻り 玄関に足を入れた瞬間も“他人の家みたい・・・”と無意識のうちに言葉が口をついて出た
幼い頃 遊んだ路地が 大人になって行ってみると
“こんなに狭かったっけ?”と思う感覚に似ているかもしれない
その時は そんな風に思った
少し熱っぽい子供を抱いて その夜は眠りに就いた翌日
陽の光のまぶしい朝だった
今日から また3人一緒の毎日が始まる
この日も いつも通り Bedでニコニコしている子供の頬にKissをして 彼は仕事に出かけた
でも やっぱり いつの頃からか 1つ2つとこぼれ落ちた何かが欠けたままだった
それは 敢えて 振り返る事をせず ひたすら駅への道を自転車で走り去って行く彼の背中に表れていた
そして私は どんどん遠ざかって行く彼に いつも決まってこうつぶやいた
「行ってらっしゃい。今夜は帰って来てくれる?」相変わらず 太陽は眩しく ジリジリと気温を上げていった
そして その朝は その欠けたものが何だったのかに気づくまでに 彼を見送ってから さほどの時間を必要としなかった彼を送り出した部屋には 隠し忘れてはいけなかった最後の忘れ物があった
紅いルージュを拭き取ったティッシュ
ファンデーションを落としたコットン
そして・・・
灼けた鉄の棒が 一瞬 頭の中をジュッと焼いた途端 思考回線がことごとく切れてしまったようだった・・・・
どのくらい時間が経ったのか・・・
私は 今日一日 何をしていたのか
全く思い出せない彼がドアを開ける鍵の音で 夜になっていたことに気づいた
ー 今夜は 真っすぐ帰って来てくれた ー
今から展開されようとしている問題を思えば そんなことはどうでもいい事のはずなのに それでも 私の元に帰って来て 今 ここに居るのだという事に かすかでも
喜びを感じて安心しようとしている私がいた子供は気を利かすように ぐっすり眠っていた
平静を装おうとする私の態度から 彼は瞬時に全てを読み取った
心の中の動揺とは裏腹に 口をついて出る私の言葉は
自分でも不思議なほど 冷静だった
何があったのか
どういう思いなのか
彼の心はどこにあるのか
色々聞きたかった。
それに対し 迷いが かなり本気であることを証明するかのように 彼は 無言のまま彼女をかばった
答えは明らかだった
とりあえず こんな気持ちのまま 同じ空間で眠りに就くことは出来そうになかった
家を出ようとする私を制して 彼は自ら 何枚かのワイシャツと下着を鞄に詰めて この家を出て行った
明日 彼女に会わせてくれるという約束をして・・・思い出していた
六畳一間からスタートした新婚生活
何もなくても 毎日がきらきらしていて 楽しい事ば
かりだった
彼にはミュージシャンになるという夢があったし
私には その夢を陰から支える謙虚な女性像に対する
一種の憧れのようなものがあった
仕事もお金もなかったけど
その代わり 二人で居られる時間はたっぷりあった
洗濯物がいっぱいになると そのバスケットを抱えて
二人でコインランドリーへ行った
その間 夕方の駅前通りをよく散歩した
また 仕事帰りに飲んでいるバンドの友達から
“出てこないか”と連絡が入ると 少々遠いところでも
中古の自転車に二人乗りをして出かけた
そして そろそろ帰ろうかという頃
必ず 一人の友人が
“良いよなぁ お前は 明日 仕事じゃなくて”
と ちょっぴりの皮肉と 友人としての思いやりと
そして 本当は そんな生活も羨ましいのだという思
いを込めて言った
みんなは爆笑したが 私は こんな生活もまんざらじ
ゃないと思っていた
駅へと向かう友人達を見送ると また 古いアパート
へと私達は自転車を漕いだ
そして 二人の荷物を入れると 2畳ほどしか残らな
いスペースに寄り添って眠った
でも すぐに寝返りを打って背中を向けてしまう私に
彼は決まって
“背中向けたまま 眠る夜ぅ~” と ふざけて歌うの
だったー ごめんなあ 今はこんな狭い部屋しか借りられなく
て・・・ ー暗闇に ぽっと彼の声が浮かんだ。
私は その温かさに安心して 深い眠りに就いたそんな二人の過去が このような未来に繋がっていたなんて 信じたくなかった
あの頃より 少し広くなったこの部屋は 彼女との場を作り やっと手に入れた中古車は 彼女を乗せてドライブに出た
気づくと 私の居場所は どこにもなくなっていた
Smile
2024/08/10
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「昨夜眠れずに泣いていたんだろう」この切ない歌詞と温かいメロディから始まる歌を保育園に私を預けに行く時やお迎えの時に母がよく車内で流していました。お金にだらしない父に母は私が高校卒業するまで離婚せず我慢してくれ、今ならなぜこの歌をよく聴いていたのか分かります。子育てと家計のやりくりで自分の時間が無かったから。いつも自分は後回しで家族を優先にしてくれたから。誰かに頼ったり話を聞いて欲しかった、自分と重ねていたのだと思います。乳癌、肝臓癌を乗り越え現在も還暦を迎え元気に過ごしてる強い母は私の誇りです。これからは母が自由に健康で過ごせるように、母娘でいつかハマショーさんのライブに行くのが夢です。
さっちゃんのむすめ
2024/08/10
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この曲が発売される前日2003年9月9日に私の母がなくなりました。ガンでした。ガンが見つかった時には余命半年と言われましたがそれから2年半の闘病生活の末、逝ってしまいました。優しい人でした。大学を辞めた時も、一人暮らしがしたいと勝手に家を出て行った時も何も言わずに頷くだけでした。私が小学生の頃、腎臓を患い4ヶ月入院した時も毎日欠かさず見舞いに来てくれました。
そんな母に親孝行と呼べることを何ひとつできず今でも後悔をしています。
この曲を初めて聴いた時、「もう母さんは行くからあんたもしっかりしんさいよ」と言われているようでした。
あれから21年。自分も今年で50歳になりますが、いまだにこの曲を聴くと当時のこと、母のことを思い出し涙が出てきます。
どうしてもっと早く親孝行をしなかったのかと…。
いつかは誰しも別れの時がくる。だからこそ今、この瞬間が大切なんだといつも思わせてくれる…。私にとってそんな大切な一曲です。
じゅん
2024/08/10
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1990年春、私は、某飲料メーカーに入社しました。
まだ、18歳の、新入社員です。6月のある日、会社から近い駅前のスーパーに週に何回か仕事で訪問してました。
多分、二時間くらい店内で商品を陳列など、活動してたのです。
当時は、まだ、商品には、バーコードも無く、1本1本に、値段のラベルを手打ちする事が、普通でした。
そうしないと、レジ係りの担当者も、価格が、分からないのです。
今じゃ、考えられません。その頃の、店内は、有線放送なのか、お店の方が、自分で選んだ楽曲を流していたのかは、分かりませんが、よく歌がBGMとして流れてました。
その中で、どうしても気になる曲が、ひとつありました。
でも、誰が、歌ってるのか?
何ていう、曲なのかも、分からないままに、定期的に・・・
その曲が、自分の五感に響いてくるのです。夏の、ある日に、会社の4歳先輩の車に乗ることがありました。
カーステレオから流れてくる、CDが、私に、答えを教えてくれたのです。
先輩は、いろんなアーティストの、CDを買っていたようです。
最近、発売されて、聴きだしたと。私は、「これっ、誰、なんですか~?」と、先輩か、圧倒されるくらいの勢いだったかもしれません。
その後、すぐに、CDショップに行って、私は、この曲を手にしたのです。
もし、あのスーパーに行ってなかったら、
もし、先輩の車に乗っていなかったら、
私は、あなたに、逢えていなかったかも?
いろんな、出会いに感謝して、是非とも、コンサートで、あなたが歌っている姿が、観たいのです。
その、一曲は、
浜田省吾さんの「恋は賭け事(ギャンブル)」
です。
嶋田崇之
2024/08/10
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4人姉妹の10人家族。
幼い時から実家を継ぐのは私だと言われ続け何も言えない自分が嫌になり15歳で寮のある企業に就職。
右も左も分からず一歩踏出したあの頃。
同世代の子が楽しそうにはしゃいでるのを横目で見ながら行き場の無い気持ちをつのらせていた。
早朝、仕事に出掛け定時制に通い寮に帰る毎日。
親がこいしくて毎日が苦しくて辛い仕事で泣いたあの時、投げ出したい気持ちを抑え「もう少し…もう少し…」と頑張ったあの頃。
狭い寮の部屋で一人ラジカセ抱え泣きながら浜田省吾んの歌を聴いてました。
時間を掛け戻れるなら、あの曲にのせて「頑張ったね」と自分を褒めてあげたいです。
サトちゃんと
2024/08/10
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15の時、通りのレコード店に並べてあったLPを見た時、稲妻が俺の体駆け抜け、すべての夢が走り出し、貧しさも恋のつらさも受け止めた まっすぐに…。
八幡浜市のアーケード商店街に小さなレコード店があって、その店のアニキ(若い頃のポール・マッカートニーに似ていた。)に尋ねたんです。「浜田省吾という歌手はええが⁉️」彼曰く、「この人はええで〜。聴いてみなはい」と言われました。なけなしの小遣いで「君が人生の時」をゲットしました。その後、その店で、毎月一枚ずつ、デビューアルバムから「マインド・スクリーン」までを手に入れました。そんな時、中学校卒業後の3月に松山市でコンサートがあると聞いて、当時、つきあっていた女の子に「一緒に行ってくれるかな⤵︎」と誘って、収容率約10%の松山市民会館の最前列に座って、若い浜田さんの勇姿を眺めてました。彼はアンコールの後で「いつか、この会場を満員にしてみせるから、その時にまた僕の歌を聴きに来てください」と言いながら、トレードマークのサングラスをチラッとはずしながら、ステージから消えていきました。
清水俊勝
2024/08/10
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
この曲が発売された時は乳がんを告知され手術するころでした。
この先の治療の事、再発したらとか、とにかく不安だらけでした。
そんな時、省吾さんのこの曲で、『大丈夫って〜大丈夫だからって』で勇気と元気、希望をもらい感謝です!
あれから、前向きに日々楽しく生きています!
まだ治療も続いていますが、大丈夫🙆です。
浜田省吾さんをこれからも追いかけて応援していきます!ありがとうございます♪