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1980年、高校3年の時、従兄弟のお兄さんに省吾さんのLPレコードを3枚借りて聞いたのが始まりでした。
1982年の夏、鹿児島でのコンサートに初めて省吾さんに出会い、それから省吾さん一筋の私でした。
1982年の秋から付き合い始めた彼とよく車で省吾さんの歌を聴いていました。
1986年私は地元鹿児島のおはら祭りでミス鹿児島に選出され、ちょっと陽の当たる活動をしていました。
しかし、彼は母子家庭で奨学金を貰いながらの歯学部の学生でした。
しかも、1つ単位を取り損ねて留年をしてしまい、私と対照的な1年を過ごしました。「丘の上の愛」を聴きながら、「リアル僕の歌じゃん!」と言っていました。
実際、ミス鹿児島の任期後はいくつかの縁談が来ました。しかし、歯科医師国家試験に無事に合格を果たし、5年半もの交際の末、結婚しました。
子供も3人授かり、2018年10月、末の子がロサンゼルスで結婚式をしたのです。
その際、観光でグリフィス天文台に行き、夜景をバックに家族全員でで写真を撮りました。
とても素敵な夜景で驚きました。海外に詳しい人は良く知ってる所なのでしょうが、全くそう言う知識が無い私は行ってみて感動していました。
翌年の年賀状にはその写真を載せるために夜景の写真を何回も目にしていました。
そして、ある日気づいたのです。
ソングライターの旅のDVDの「丘の上の愛」を歌う省吾さんの後ろに同じ夜景がある事に!
今まで何回も何回も観ているのに気付いていませんでした!「丘の上の愛」の「丘」はあの丘なんだ!と!
私、この夜景、知ってる!
私と主人の思い出の丘だ!遠い昔と私と主人と省吾さんの歌と今もずっと繋がっているように感じています。
省吾さんの歌を聴きながら結婚生活を続けて34年!充実させて頂いています。
ありがとうございます。
nuts
2024/08/20
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想い出の一曲と言われても困る、というのがみんなの本音なんじゃないかと思います。かくいう私もその一人。或いは、大好きな曲と想い出の曲は違うのかもしれません。
そんな中、自分の中で一番の想い出の曲と言えば「反抗期」、そうHome Boundの中の一曲、あの反抗期です。
1986年、浜田省吾ファンにとっては大事な年。
あの年、私はまだ二十歳で社会人一年生でした。入社して半年も過ぎた10月最初の土曜日、夕方には終わるという予定で私は休日出勤を命じられました。ところがどうでしょう。13時作業開始を命じた上司が一向に出社して来ないのです。その日の私は業務終了時間を特に気にする必要がありました。1986年10月4日の土曜日、そう浜田省吾・代々木オリンピックプール公演2日目その日でした。上司は来ません、時計を見ます。上司は来ません、時計を見ます。上司は…。
当時付き合っていた彼女と現地で待ち合わせる約束をしていたので余計に時間が気になります。当然のことながらその時代、連絡を取る術は無く時間はただ過ぎるばかりでした。
上司が来たのは15時頃だったと思います。その後、どんな仕事をしたのかは今となっては思い出せません。開演時間をとっくに過ぎた業務終了の合図。私はまさに脱兎の如く事務所を飛び出し会場を目指したことだけは覚えています。走れ、急げ、最寄り駅である原宿駅の改札を抜け、今もある会場前の歩道橋を渡っている時、会場の大きな屋根から歓声と曲が聞こえてきました。
この曲は…「反抗期」だ。
反抗期でした。なぜかこのテキストを書いているだけで、その瞬間が蘇りなんだか涙が出てきそうになります。なんなんでしょうね。この気持ちは。本当に音漏れの歓声と曲が聞こえて来たのか疑わしくもありますが、紛れもなく聞こえて来たのです。
その後、会場内で一人待っていた彼女と残りの曲を最後まで楽しむことができたのですが、なぜかそんな会場内で聴いた曲たちよりも自分にとってのオープニング曲だったあの反抗期のことを忘れることができません。
あれから時が過ぎ、いつしか自分が作業予定を立てる立場になりました。あの土曜日の経験を元にまずメンバーに個人の予定を聞くことにしています。どうしても休みたい日はないか、早く帰りたい日はないか。いつも上手く調整できるとは限りません。でも冠婚葬祭のような大きな予定でなくても本人にとってはとても大事な約束の日が、約束の時間があるはずなんです。あの時の私のように。
ここからは余談です。
あの時演奏した楽曲を今年の有明アリーナでも何曲か聞くことができました。2024年1月19日の金曜日、平日でしたが私は午後休暇を堂々?と取り余裕を持って会場入りしました。今回は反抗期の演奏はありませんでしたが、ライブに参加する度にあの秋の夜空に響いた歓声と浜田省吾の声をいつもいつも想い出すのです。
ユキシン
2024/08/20
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遠距離恋愛をしていました。
当時、メールはもちろん、電話をかけても誰が出るか分からない世の中でした。
ある時、500㌔離れた彼と電話中に些細なことで口論になりました。その後の数日間、幼稚な私は、おそらくは彼からであろう電話に出ませんでした。
ある夜、ひとり暮らしのアパートのチャイムが鳴りました。扉を開けると照れたような恥ずかしそうな微笑みで彼が立っていました。
「明日は仕事やからすぐ帰らなあかん。数時間だけど会いたかった」と高速を一人運転し、来てくれました。本当に数時間でしたが、私はただただ嬉しかった。
帰り際に15分のカセットテープを渡されました。
その時に入っていたのが 君の微笑 です。
男前だけど決して器用とは言えず、口下手な彼からのメッセージだと思い、心にしみるというより苦しかったです。彼のおかげでフアンクラブに入りました。
その後の代々木第一体育館が、私にとって最初の省吾さんのライブです。当時のフアンクラブ席はステージサイドだったと思います。
省吾さんが私たちステージサイドに手を振ってくれたこと、彼と大喜びしました。彼の笑顔も忘れられません。
tomi
2024/08/19
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当時、私は中学一年生。
親父は町工場を経営、母親は親父と一緒に働き、体調を崩し入院した夏の終わり。
これから、うちはどうなるんだろうと不安を抱えたまま、駅前に行きました。
駅前付近にあるレコード屋の前を通った時「仕事終わりのベルに、とらわれの」とスピーカーから曲が流れてきました。
足が止まり、ポスターを見ながら「何でサングラスかけてるんだろ。」って思い、曲を聴き続け「将来、俺も、こんな大人になるのかな」と、心を打たれながら自分が大人になる姿を初めて想像したのを思い出します。
思い描いたような大人にはなっていませんが、あれからずっと、省吾さん一筋です。
がんちゃん
2024/08/19
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話は約30年前となります。当時私は20歳の学生で、高校時代から5年お付合いしていた彼女も20歳で学生でした。
高校より4つ歳の離れた兄貴の影響で浜田省吾を聴いており、彼女も一緒によくCDウォークマンで省吾さんのいろんな曲を聴いてました。
「いつかライブいきたいね」とお互い話していましたが、
高校生時は受験などでライブに行けませんでした。
それから大学生になったのですが、名古屋と大阪の遠距離恋愛となり、お互いアルバイトと勉強で会う機会も減ってしまったのですが、互いの絆で遠距離も大丈夫でした。
そんな中、省吾さんのライブ「Tender is the night」があるとのことで、「絶対に行きたいよね」と話していました。
当時のライブチケットは、電話のみでの争奪戦だったので、中々電話も繋がらず、繋がったときには完売となってました。私は諦めていたのですが、後日追加販売があったみたいで、彼女がチケット2枚取ったと連絡があり、お互い電話口で「やったね」ばかり言っていたのを思い出します。
ライブ当日、大阪から彼女が名古屋に来て楽しむはずだったのですが、来たのは来たのですが、かなりの高熱で身体がダルそうでした。私は、身体優先で「ライブはまた今度にしよう」と提案したのですが、どうしても行きたいと珍しくわがままを通してきました。しんどくなったら直ぐに帰る約束でライブに参加したのですが、省吾さんには大変失礼ですが、初めてのライブでセットリスト等全く覚えていなく、彼女のことばかり心配しておりました。案の定ライブの途中で帰ることとなり、バスで家近くのバス停に着き、彼女をオンブし、歩いて帰っていると彼女が背中から「今日はごめんね」と私に泣きながら囁いてきました。私は逆に申し訳ないと思っていただのですが、気が付くと省吾さんの曲を歌ってました。今思えば、切ない歌詞だったのですが、その曲が「MIDNIGHT FLIGHT -ひとりぼっちのクリスマス・イブ」でした。そして歌ってる途中で、雪がちらつき出してきたのを覚えております。
なぜその曲を歌ったかと言うと、その日が12/24のクリスマスイブだったからです。
彼女とは、それから2年お付合いしましたが、結局はお互い別々の人生を選びました。
今でも「MIDNIGHT FLIGHT -ひとりぼっちのクリスマス・イブ」を聴くと当時を思い出します。
まだ話の続きはありますが、長くなりますので、ここまでにしておきます。
長々と申し訳ございませんでした。
SHUJI
2024/08/19
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
大学4年時に就職に向けて、試験勉強に励んだ時に心の支えとなる曲で勇気づけられました。
おかげ様で地元の広島での就職ができましたことに感謝しております。