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20代のころ父親に反抗し、好きな人の存在にも満足できず人生の目的を失い、真夜中、近くの埠頭まで父親のオレンジのマーキュリーを1人飛ばして波の音を聞きながら「防波堤の上」を何度もリピートしました。実際の波の音とテープの波の音とがシンクロしてまるで曲の中に自身があるかのような錯覚をした覚えがあります。なんと悲しく切ない曲なんだろう。「恋に落ち誰かと眠る、期待されて裏切られて」「悲しいほど自由」「風よ不意に俺の背中押すがいい、躇わないで」このフレーズが当時の私の状況と重なり、もがき苦しんでいました。
そんな私も61歳(女)、人生自分でなんとか切り開いて今は子供も独立し幸せな日々が送れています。
1月の埼玉アリーナに40年ぶりに主人とコンサートに行ってきましたよ。「愛の世代の前に」がスタート曲で、涙が溢れて止まりませんでした。ありがとうございました。
ニニ
2024/08/02
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邦楽に全く興味がなく高校卒業まで洋楽しか聴いてこなかった私。
高校卒業して就職した先で出会った先輩が浜田さんの大ファンでした。
当然、私は「浜田省吾」というシンガーソングライターを知るはずもなく・・・。
そんな時、先輩が一枚の紙切れを私にくれました。
そこには詩が書かれていました。
題名は「もうひとつの土曜日」。
誰の詩かも知らされず「読んでごらん」と渡された一枚の紙。
私は休憩時間にその詩を読みました。
そして、ふと気付くと涙が頬をつたっていたんです。
とにかく感動して自分でも何枚も清書したりしました。
そして先輩に「これは誰の詩なの?」と聞くと黙って一枚のアルバムを渡されました。
それが「J・BOY」です。
家に帰って聴いて体中、鳥肌が立ちました。
「えっ?邦楽にもこんな人がいるの?」と驚きと共に何回も何回も聴きました。
それが私が浜田さんのファンになったキッカケです。
先輩には感謝しかありませんでした。
勿論その後は先輩にアルバムを借りて全部聴きました。
もう感動ものです。
・・・と共に今まで洋楽しか聴いてこなかった自分が情けなくなりました。
音楽に国境なんてないのに・・・。
あれから40年近く浜田さんのファンをやっています。
浜田さんの楽曲の中で一番好きな曲は別にありますが「もうひとつの土曜日」は初めて「浜田省吾」を知った大切な曲です!
あの時、先輩に教えてもらわなかったら、きっと今でも浜田さんの事は知らないままだったと思います。
先輩ありがとう!!
貴女のお陰で今や私は浜田さんのオタクです(笑)。
先に詩から入った「もうひとつの土曜日」。
粋な渡し方をしてくれた先輩とは先輩が転職した為に離れてしまいましたが、きっと何処かで今も浜田さんのファンを続けている事でしょう。
いつか何処かの会場で偶然会えたら・・・なんて想像しながら今でも「もうひとつの土曜日」を聴くと先輩と自分が浜田さんのファンになった事を思い出します。
八百鼡
2024/08/02
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私と彼の出逢いは私が中学2年の時。彼は23歳で赴任してきました。
当時まだまだ子供な私は大人な先生に恋をしました。大好きな先生が浜田省吾さんのファンだと知ってから私も浜田省吾さんの歌を聞きまくり先生との話題作りに必死でした。先生が歌ってくれた「いつわりの日々」が特に大好きになりました。成人するまで想いは変わらず。再会した時にはすでに先生には彼女がいて撃沈。それから数年後又再会した時には先生は結婚していて子供がいましたが別居中で離婚するとの話を聞き、私から猛アタック。それから同棲スタート。でも彼は体調も悪く持病を抱え仕事の事で精神も病み、彼が私を叱責する事が多くなりました。なんとか彼に笑顔になって欲しいただそれだけでした。金銭面でも
彼の負担になりたくないとがむしゃらに働きました。子供の時に聞いたいつわりの日々の内容がようやく身に染みて理解でき、彼の寝てる後ろ姿を見ながら泣く夜が多くなり、離婚すると聞いてから4年何の進展もなく私は本当に愛されてるのか分からなくなり、最近別れを私から切り出し長い長い恋愛に終止符を打ちました。いつわりの日々を初めて聞いてから30年後、ハッピーエンドにはなれなかったけど、最後は自分の気持ちを偽らず正直な想いを話せて、
前向きに生きて行けそうな気がしてます。
マリア
2024/08/02
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同じタイトルの作品が実に多い中で、
1998年の暮に、リリースされた本作品は、
詩人の鐘 1999バージョンのカップリング的な位置だけど、僕はこちらがA面としての捉え方をしている。当時、浜田省吾は「ON THE ROAD2001」という、4年間に及ぶライブツアーの最中。そのツアーのタイトルソングと言ってもいいのでは…
スケールが半端じゃない。
様々な人生を、7分間に凝縮するこの詩は、
人生の様々な局面に於いて背中を後押しする
応援ソングにも聴こえる。
大切な人をなくした時、大切にしているものを
失った時、会社が倒産した時、家族・自分自身が病に倒れた時…生きていく限り、立ち止まる事はできない!どんなに長く苦しい終わりが見えないような坂道でも、乗り越えなければならない。
上りつめた時、そこに広がる景色。どんな景色か誰一人知らないけど、幸せに満ちた世界があると信じきれるから人は前に進む事が出来る。僕を含め全ての生きとし生ける人にとってこの作品は、決してゴールではないけど、
たどり着くべき場所を意味していると思える。
ある意味、かけがえのないもの、かけがえのない場所。約束の地に置き換える事も出来るだろうが、僕は今もそこに向かっている。息を切らし走り続けながら、時にはつまづき倒れそうに
なりながら、今もこの先も…
そして、たどり着いた時、生命の煌めきに満ちたその場所で真に笑いあえる。
その日を信じて歩いていける。
それで十分に幸福だと、いえる。
それを認識させてくれたのが、この楽曲。
「日はまた上る」
長谷川裕一
2024/08/02
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
この曲は今の主人との出会いのきっかけの曲です。シングルマザーで四人の子育てと仕事の掛け持ちで気持ちが落ち込んでいた頃あるきっかけで今の主人と出会い初めて省吾さんのライブに一緒に行く事になりました。この曲が始まって私はノリノリ💃でした(笑)その明るさが主人には良かったらしくて、四人も子持ちの私と再婚しようと思ったみたいです。あのライブであの曲を歌ってくださってなかったら今も私はシングルマザーだったのではとさえ思います。それからは必ず年に一度開催されるライブには主人と行っています。主人は難病になりましたが…必ず省吾さんのライブに行きたいとリハビリも頑張っています。