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既に30年以上前ですが、職場の上司に連れられて二人で初台の小さなBARに行ったんです。カウンターしかない本当に小さいBARでした。そこでカラオケのマイクが自分に回って来まして、歌ったのが「MidnightFlight~ひとりぼっちのクリスマスイブ」。
隣には上司。そしてその隣に見知らぬ男性がひとりぼっちでグラスを傾けていました。
歌い出し暫くすると、そのひとりぼっちの男性が「…いい歌唄うなぁ…」と呟き、しくしくと泣き始めたのです。
唄いながら驚きましたが、きっと心に刺さる出来事があったのでしょう。その後の男性の事は未だに気になります。そしてそれからこの歌も特別な曲になりました。
M.Shiba
2024/09/03
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浜田省吾
小5の時、姉の部屋から聞こえてきたのが、浜田さんの曲。誰なのか何の曲なのか全くわからず、ドアに張り付いて聞いていました。その後、姉が出かけたのを確認し、カセットデッキを見たけどテープは入っておらず、覚えている声だけを頼りにかたっぱしから聞き、1時間後にたどり着いたのが「こんな夜はI MISS YOU」 この声!!!!!ゆっくりな曲ばかりかと思っていたら「J.BOY」!!衝撃が走ったのを今でも覚えています。意味は分からないけど忘れられなくて。その日から父にねだってカセットテープを5本貰い、3週間かけて、姉が出かけたすきにダビングしてイヤフォンをしてこっそり聞いていました。中学生にになりお小遣いを貯めてはCDを買いあさり、ファンクラブなるものを見つけ、やっと入会できたのが高3の終わり。あれから約40年。楽しいことも悲しいことも、全てが浜田さんのうたと共に。コンサートに行く!アルバムにDVD!それを糧に今でも頑張れております。
きなこ
2024/09/03
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浜田省吾
高校生の時
私の友達はとても歌が上手で、歌手になるために、彼女の家には8トラのカラオケセットがありました。
時々遊びに行っては、歌詞カードの中から、歌える曲を選んで私も歌ってました。
8トラって確か一つに何曲か入ってて、その中にこの曲がありました。「風よ 不意に俺の背中
押すがいい 躇わないで」この歌詞にとても惹かれ、何度も練習しました。
私は小学生の頃から親に愛されてないと思い、希死念慮がありました。
自分では死ねないから、誰かに背中を押して、導いて欲しかったんでしょうね。
波はありますが、まだ生きてます。
自然に逝けるその日まで…、が理想なんてしょうが、心はやはり辛さの淵に浸かったまんまです。
頑張ると頑張りすぎるので、無理をしないよう自分と折り合いをつけながら、何とか生きています。
あづ
2024/09/02
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浜田省吾
7泊8日で本州を一周する船で行われた研修。その最終日の朝、ベッドサイドのスピーカーから流れてきたのが『もうひとつの土曜日』だった。
前日の夜、フェアウェルパーティーを抜け出し、デッキで語り合った彼のことを想い、眠れない夜を過ごした私は、まるで自分のことのように感じ、次に流れてきた『傷心』が終わるまでじっと耳を傾けていた。
それが私と浜田省吾さんの歌との出会いだった。
1週間前、私はワクワクした気持ちで船に乗り込んだ。4 月から始まった社会人生活は思い描いていたものではなく、現実の厳しさに打ちのめされそうになりながらもなんとか毎日を過ごしていた。
そんな中、夏に行われる船での研修は海のない県で育った私にとってとても魅力的だった。しかも使われた船は一目で見渡せないほど大きく、美しい船だった。
しかし、晴海埠頭を出た船がまだ東京湾も出ないうちに私は強烈な船酔いに見舞われ、ベッドから起き上がることもできなくなった。
彼と出会ったのはそんな私がなんとか歩けるまで回復した、最初の寄港地北海道で見学地に向かうバスの中だった。
やっと動けるようになった私に周りの人は優しかった。体調を気遣う言葉が次々にかけられた。
しかし、隣の席に座った彼だけは違った。開口一番『消えていた人』と言われ、カメラのフィルムを自分で入れられずにいた私に、『自分で使えないものを持ってきても無駄』といい、フィルムをさっと入れると使い方を丁寧に説明してくれた。そして、私が受けられなかった研修内容もわかりやすく説明してくれた。
そんな彼とは僅か1日しかない寄港地活動でのバス移動で隣の席になることが重なり、私にとって気になる存在となっていった。
しかし、研修は厳しく、朝6時から始まり、課題に追われ寝る時間は毎日3〜4時間という生活の中、私は自分の気持ちについて考える余裕はなかった。
僅か1週間での出来事。いつもとは違う生活で気持ちが昂揚しているだけでこの研修が終われば元の生活に戻るだけだと自分では思っていた。
そして最終日。浜田省吾さんの歌を聴いた瞬間、自分でも整理がつかなかった自分の想いに気づくことになったのである。
その想いを抱えたまま、約束も何もせず2人は船を降りた。
しかし、その後縁あって遠距離恋愛を実らせ今に至っている。
あの時、曲名も歌手もわからず心に刻んだ曲は彼が大好きな歌手の曲だった。その後教えてもらって買ったアルバムは何百回も聴き今でも彼が買ったアルバムとともに並んでいる。
海想
2024/09/02
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浜田省吾
家路を好きになったのは割と歳を重ねてからだ。
多分、三十代の頃は一番好きな曲ではなかったと思う。
いつの間に好きになったのか今では思い出せないがライブで家路のイントロが流れようなものなら涙腺崩壊である。
なんだろうかあの感情は。ところで、これも割と最近になって趣味になった事なのだが週末によくアートギャラリーに行くようになった。美術館のようなものではなく小さな会場で割と気楽に入れる類のものだ。大概は無料で場合によっては作家さんと会話も出来たりする。作家はなにを考え絵画や写真やオブジェを創作するんだろか。素人ながらに考えを巡らせ作品に向き合ったりするのが最近の楽しみだったりする。
そんな先日、
とある油絵の展示が行われているギャラリーを訪れた時のことだ。作家が北米を旅した時の記憶をベースに描いたという作品は明るい色合いの風景や人物画が展示されていたのだが、その中で会場の一番目立つ場所に大きな風景画が置かれていた。資料によると1167mm×910mmというから中々の迫力である。
こんな構図だ。空は暗くなりかけた青、右上には微かに残る夕焼けの赤、
荒野の真ん中には一本の道路、下から上に続くその道の先は遥か遠く地平線と接する。。。
こ、これは、まるで家路じゃないか。他にも沢山の作品が展示されていたのだが、私はその作品の前から動けなくなった。ずっと見ていた。そして考えを巡らせてみる。ここでは絵画そのものではなく家路の歌詞について考えてみた。
好きな曲だが改めて考えると不思議な歌詞だなと思った。空とこの道が出会う場所は実際にはあり得ない。どこまで行っても接しない。でも、そこに向かって歩き続ける。強い意志を持って。でもそれがなぜに家路なのか。家路って帰る道じゃないのか。前に進む道をなぜ家路というのか。
気が付くと後ろに作家の方が立っていた。
私は聞いた「この赤い空は夕焼けですよね」
「そうです」と作家。
「私の好きな歌にこの絵と同じような情景があるんです」
作家は自分と同年代だった。もしかしてと思い
「浜田省吾の家路っていう曲なんですが…」残念ながら作家の方は音楽には詳しくなくてと言いながら
存じ上げずと困った顔をして答えた。そして、おそらくは
リップサービスだとは思うが今度探してみますと言った。
作家がネットで家路を検索するかどうかは分からないが
浜田省吾ファンがこの絵画を見たら、誰がどう見たって
これは家路だ。作家さんが家路の歌詞に辿り着くといいな。
そんな事を考えながら今このテキストを書いています。
もしかして実はファンクラブ級の大ファンなのかも、
そんな事も考えながら。
ユキシン
2024/09/02
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浜田省吾
20年ほど前、入院中の母から「省吾さんがライブするのね。行かないの?」と知らせがありました。
当時はツアーのCMがテレビで流れていた頃です。
私より先にCMを見た母は、これは知らせないと!と思ったそうです。
病室で母と一緒にCMを見ることも何度かあり、省吾さんの話題になったりしました。
…が、余命宣告されていた母の側を離れるわけに行かずツアーは諦めることに。
母には「ほんまやなぁ、また近くなったら申し込むわ〜」と返しました。ツアーが始まってる頃には母はこの世に居ないことを知りながらの精一杯のウソ
でした。それから数年経ち2011年のライブに参加した時のことです。
あの時のCMで流れていた“光と影の季節”を生の声で聴けたのです。
いろんな感情が一気に駆け巡りました。
前のツアーでした曲はしないだろうと勝手な思い込みからの衝撃と、母との思い出が混ざり合って…感動しかなかったです。今でも“光と影の季節”を聴くと母に見守られているようで心が温まります。
省吾さんが励ましてくれている、 と前向きにもなれます。
そして今では省吾さん好きな仲間と集まった時に必ず歌う絆の曲でもあります。
純子
2024/09/02
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浜田省吾
夫は学生時代からの浜田省吾ファン。結婚式では新郎退場の曲に「もうひとつの土曜日」を選んでいました。私も一緒に聞いているうちにファンになりました。
その夫が2020年に悪性リンパ腫を再発。コロナもあり入院中は直接の面会もできない状況でしたが、長い入院、治療を続け職場復帰する事ができました。しかし半年後に再々発。抗がん剤治療をしながら、骨髄移植をする事を決意しました。
移植が決まった頃、ON THE ROAD 2022のチケット申込みをしたいと言われ、内心は治療がうまくいってもライブに行くのは無理なのではと思いましたが、モチベーションを上げるためにOKしました。
そうしたら、なんと年明けのライブに当選。
しかし、夫はライブに行くことは出来ませんでした。
私は夫が亡くなって1か月余り、1人でライブに行ったことがなく、デジタルチケットなので他の人を誘うこともできず、行こうかどうかずいぶん悩みました。
でもこれは、一緒に過ごした楽しい時間を私がこれからも続けていくために行動するよう背中を押してくれているのだと思い、夫のスマホと身分証明書を持ってNHKホールに向かいました。
夫が亡くなった事を受付の方に話した処、夫の名前入りのチケットを発券してもらえ、当日は録画日でとても良い席で本当に行ってよかったです。
その後、会社の同僚とカラオケに行くときのメモをみつけました。
浜田省吾「とらわれの貧しい心で」
ちょっと意外な選曲だったので改めて聴き直してみました。今聴くからこそ、歌い出しからの歌詞に夫の気持ちが伝わってきました。この曲を選んで歌ってくれていた事がとてもうれしく、これからの私の大切な曲になりました。
しまぞう
2024/09/01
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
「浜田省吾のコンサート行かない?」
16歳の高校2年の時に、友人から誘われました。友人の姉が行けなくなったからとの事でした。洋楽しか聴かなくて、もちろん浜田省吾なんて知りません。
「浜田省吾なんて知らないし、やめておくわ。」
それでも、友人は誘ってきます。
「分かった。じゃあ、カセットに何曲か入れて渡すから、それから考えて。」
何日かして、1本のカセットテープが僕の手元に来ました。
『浜田省吾 ベストソング』と書いてあるテープでした。順に聞いていく中で、聞きながら涙が溢れてくる曲がありました。『片想い』です。
次の日に、「コンサート行きたい!」と友人に話し、それから40年経ちました。
あの時のカセットテープは無いけれど、心の中にはいつも『片想い』が流れています。