-
(2014年1月5日さいたまスーパーアリーナ浜田省吾コンサートにおけるカメラマンによる観覧妨害についての)
補足∶1改めて訴訟も視野に入れています。
今までの判決事例を見ますと、
『ライブの主催者はコンサートにおける楽曲等の鑑賞に適する環境を維持し、これを害する要因があれば、その除去に向けて適切に対処する一般的な義務を負うもの』と解されています。なので今回のカメラマンによる迷惑行為に関して、『主催者は事前に把握出来なかったことでやむなし』と認識しています。
主催者側が、『アリーナ二階右側階段横の短いスペースで、カメラマンが前後左右に歩き回って小型カメラを振り回すことで、周囲の観客の視聴妨害になること』が理解できなかったことは到底考えられなく、
カメラマンと指示した演出家した側の間で、「ファンはコンサートを見るのを多少は妨害されても、文句を言えば今後浜田省吾のチケットが買えなくなってしまうので、みんな我慢するだろう」という認識があったものと予測できます。※あらかじめ確認しますが、コンサートに来た観客が肉眼で見る景色の全てが「浜田省吾のコンサート」であり、弊害なく見れるようにするのが、会場運営側の義務です。
■仮に映像スタッフが、『客席に迷惑が掛からないのを事前に確認し撮影を許可した』と主張した場合ですが、
①
座席に座って聴くバラード系の曲の際、同じく低い位置でのカメラ撮影なので大して邪魔では無いのですが、観客が立ち上がるアップテンポの曲ではカメラマンも立ち上がり、更に前進し、前列の観客の頭上にまでカメラを持ち上げ撮影していました。これは料金を払っているお客に対して、『頭上にカメラを乗せての撮影』という行為自体が、(触れてなくても)侮辱的な態度にあたりますし、そもそも観客が立ち上がる曲でも全てお客が立ち上がる訳ではなく、浜田省吾のコンサートの客層の平均年齢を考えれば、後方の席になればなるほど座って聴く人も多数いて、実際に私の後の席の男性も体調が悪く座って観覧していました。
観客が総立ちするロック・ナンバーだから、カメラマンも「みんなたちあがるから、自分も立って派手に動きまくって撮影出来る」という判断は間違いですし、迷惑行為以外の何者でもありません。
②
当日の二階席右側の観客の観覧する権利をカメラマンが意図的に妨害していた点ですが、『※コンサートの鑑賞権利』とは〈肉眼からステージが見える割合〉ではなく、〈ステージだけではなく肉眼に映るもの全て〉が『※コンサートの鑑賞権利』になります。コンサートのアリーナ席では、肉眼範囲で見えるステージは100%近くになりますが、後方になればなるほど、肉眼でステージが見えるパーセンテージは減り、代わりに前方の客席やアリーナの施設が肉眼による『視聴範囲』になります。
当日の二階席右側後方では、ステージが肉眼で見えて45%程度であり、残りの55%がその他の客席。このような席の場合、視界上の55%の客席によるファンの声援や応援も、ライブ会場の醍醐味を味わう大切な『※コンサートの視聴権利』になります。
今回の浜田省吾のコンサートでは、巨大なモニターを設置していないので、ライブを視聴するには、肉眼で見える僅かな部分でしかなく、それでも必死になって、二階後部座席の人たちは一生懸命にステージを鑑賞していました。
迷惑行為を行った当日のカメラマン、及び、指示を与えた演出家の考えでは、『ステージを邪魔しなければ、残りの視界の部分(ステージではない部分)で邪魔になるようなことをしても許される』という認識をしていたことが推測されます。
これは、コンサートを観覧していた人たちの視界の40%をコンサート中にカメラマンが妨害していたことになります。鑑賞権利の侵害です。
当日、二階席後方の人たちは、肉眼の半分近くの視界をカメラマンに妨害されても我慢していたのです。
③
私も浜田省吾さんのDVDは多数所持していて、ステージ後方からステージが向かって浮かび上がってくるようなシーンも、何度か拝見していますが、今回もその映像を撮るためだったか分かりませんが、あまり感動的ではない古臭い演出のように感じます。実際に、観客自体はステージ前に押し寄せるような行為は禁止されているので、リアリティに欠けるし、昔のウッドストックのようなフリー・コンサートの影響であったり、ライブハウスのような雰囲気にしたいのであれば、相当にダサい感性ですし、アリーナ・コンサートのドキュメンタリーには余計な映像だと思います。
何より、多数の観客の観覧を犠牲にしてまで行う必然性はありませんし、アリーナ後方に設置した固定カメラでズームイン・ズームアウトすれば用は足りる筈で、まさか人力でカメラマンにハンディ・カメラを持たせてコンサート中に終始、変な動きを行わせる必要は全く無いと思います。
今回、クレームを入れた私だけに、口封じをさせるため返金に応じるなら、私の周りの観客の方々で『文句を言えば、次から浜田省吾のコンサートに行けなくなるから我慢して黙っている』と泣き寝入りしている人たち全員にも、コンサート代金を返金するべきです。
同時に、『撮りたい映像の為なら観客に迷惑をかけても構わない』と、平然と迷惑行為を繰り返した当日のカメラマンや指示した演出家には、観客とアーティストが一体になって作り上げてきた浜田省吾のコンサートから、『今後は排除すべき』だとも思います。
先ずは、当日に迷惑行為を行ったカメラマン、及び、指示を与えた責任者について、この件についての説明を受けたいので、連絡先を教えていただけますよう、よろしくお願いします。これは、要求です。
組織として問題を改善しようとする姿勢がなければ、法的処置に移ります。
伊藤
2024/08/04
-
今年1月5日のさいたまスーパーアリーナでの、コンサート運営側の怠慢でカメラマンに悪質な観覧妨害を受けまして、報告させていただいたものです。
当然の処置として、コンサート代金の返金はさせていただきましたが、なぜカメラマンが悪質な観覧妨害を行ったかについては、半年以上経った今も依然として説明もありません。
また、「事前に映像撮影があり、観覧に支障を起こす可能性について一切説明がなかった」と伝えた際の返答として、運営側が「コンサートにカメラが入ると告知した」と言い張っていましたが、これは映像が商品化された際に顔が映る可能性についての了承(プライバシーの問題)についてであり、コンサート観覧中にカメラマンによって視界が塞がれるという説明ではありません。
このような不誠実な返答対応は、被害者に対して大変に失礼な態度ではありませんか?
何より、わずかなコンサート代金の返金だけで、このような高圧的なコンサート運営を続けることは、浜田省吾さんやメンバーに対しても、侮辱行為であり、大問題です。
またコンサートに足を運ぶ、浜田省吾さんのファン達に対しても、いつ自分の身に降り掛かるか分からない、という異常な事案だと思います。
さて、こちらの納得するような説明を当日のカメラマン、及び、指示した責任者から頂けますように、段取りをお願いします。
この問題を無視し続ければ、運営側の失態を隠蔽できることは、あり得ません。
まずカメラマンの氏名、及び、責任者の氏名と連絡先を教えて下さい。
このようなカメラによるシューティングが行われた場合、念入りに問題が無いのかの確認がされていたはずです。
このような異常事態になったのは、カメラマンによる暴走行為の可能性が高いのではと思います。ぜひ、当事者からの謝罪を要求します。
撮影された映像も近々発売されます。どのように映っている確認した上で、今後の対応次第では、運営側が私に「非を認め弁済金を支払った事実」を含め、ネット等に公表していきます。
何よりも、今後、浜田省吾のファンの方々が安心してコンサートを鑑賞できるようにする目的です。
伊藤
伊藤
2024/08/04
-
自分には、物心つく頃から、右手人差し指が無い、幼い頃に、怪我をして、失ったと聞いて育った。思春期の頃に、その事で悩んだ日々もあった。
やがて結婚して、子供が生まれた頃に、祖母が亡くなった。その通夜の席で、始めて指がなくなったのは、祖母の勘違いと不注意が、原因と知った。
その頃に、浜田省吾さんがテレビ番組に、出演されて、エンディングでが、日はまた昇る だった。
指があろうとなかろうと、
その人生を 受け入れて楽しむ他ない 最後には笑えるように
自分に、語りかけてくれているように、聞こえて、何かスッキリ納得して、むしろ祖母の墓参りする時には、心配かけて、済まなかったと、今も語りかけている。
mrainbowjp
2024/08/04
-
私が高校受験を控えていた中学3年の時、同級生との会話は「何処の高校を受験するの?」そんな話題ばかりでした。ある日、普段あまり接点のないA子が話しかけてきて「○○高校を受けるだって? ○○高校は加藤先輩(偽名)がいるからいいなぁ」と言われました。
その時は何も分からず、「そうなんだぁ~」ぐらいの受け応えをしていました。※私は中学2年に転校しており先輩達のことを全く知らなかったのです。
翌年、無事希望校である○○高校に入学し、高校生活が始まりました。私は部活には入らず、授業が終われば友達と話しながら帰る感じでした。ある日、サッカー部が練習をしているグランドの横を通った際、友達に「ヨッシ先輩ってかっこいいよね」と言われ、何気に練習風景を見ていました。
それからグランドの横を通る時、いつの間にかヨッシ先輩を探している自分がいました。高校1年の夏休みに中学のプチ同窓会がありました。
同窓会にはバラバラになった同級生が多数出席しており、近況を話し盛り上がっていました。そこには、A子も来ており、A子から「そういえば、加藤先輩に会えた?」と言われ、過去の会話を思い出しましたが、私は「加藤先輩ってどの人なのか分からないんだよね」と素っ気なく答えました。その後、別のグループの子たちと会話をしていると何処からか「ヨッシ先輩」ってキーワードが聞こえてきて「えっ?」敏感に反応し、声の方を見たら先程のA子たちが会話をしていました。会話に引き寄せられるようにそのグループの方へ行き、会話を聞いて衝撃を受けました。加藤先輩=ヨッシ先輩であり、同一人物だったのです。そのことを知り、私の中では何かが弾けました。これまで遠くから見ていただけのヨッシ先輩が同じ中学の先輩であることで少し近づけた気がしました。
ある日、廊下で先輩と話をしていたら、ヨッシ先輩が通りかかり、先輩がヨッシ先輩を呼び止め、「この子、ヨッシと同じ中学だよ」って紹介してくれましたが、突然の出来事で何も話せませんでした。ヨッシ先輩が立ち去った後、先輩から「あんた、ヨッシのこと好きでしょう? ヨッシはライバルが多いよ」と言われたことを今でも記憶しています。その後、校内でヨッシ先輩とすれ違うと「おう!」と声を掛けてもらえる程度の関係にはなっていました。
それから2年、ヨッシ先輩が卒業をする年となり、勇気を振り絞って「思い出に1度だけデートに行って欲しい」と誘ったら「いいよ」の二つ返事。
当時のデートといえば、映画を観て、ご飯を食べるぐらいでしたが夢の様な一日でした。
卒業式の数日後、ヨッシ先輩とバレー部の先輩が歩いているのを見かけました。
遠く叶わぬ恋と分かっていたけど、3年間の思いがどっとあふれ出てきました。
最後に先輩へ手紙を書き「片思い」の歌詞を付けたことは今でも鮮明に覚えています。
私の初恋です。先日、子供が「この人の歌詞すごくいいよ、知っている?」と聴かせてくれたのが「片思い」でした。子供は今、中学3年生です。当時のことが走馬灯のように蘇りました。
オトちゃん
2024/08/04
-
来年もまた一緒にみようね。絶対ね。
入院していた病院で、父と私の娘3人で見た花火は22年たった今でもはっきりと覚えています。
私が子供の頃、父母姉私の4人で土手に座りお弁当を食べながら見ていたとても楽しかった花火大会が、残り少ない病気の父と見る花火は、花火よりも花火を眺めている父の姿を私はやきつけていました。
今でもあの姿を思いだすと涙が溢れ、切なくなるけど、がんばれよ。負けるなよ。と、大輪の花火が元気だった頃の力強い父の姿のように思え、時が経ちようやく、顔をあげて花火を見ることができるようになりました。
省吾さんのチケットを取るために、父はいつもつながりやすいから。と、公衆電話からかけてくれ、まゆみ、チケットとれたよ。と、笑ってた顔を思い出します。省吾さんの花火を聴くたびにあの夏の忘れられない特別な夜を思いだし、お父さん、がんばるよ。と思えます。
こじまゆ
2024/08/04
-
数年前の失恋を引きずっている只中に彼は現れました。
初デートは講義の帰りによく友達と過ごしているお店。
テリトリーをオープンにする。
バイトの終わりには必ず表参道沿いにある公衆電話から電話を掛けてきてから、彼は自宅に帰っていた。
お付き合いして初めての年末には「帰省するけど一緒に行く?」なんてあっさり聞いてくる。私が浜田さんのコンサートに行く予定と伝えると彼も行きたいと。
その頃はチケットも入手しやすく一緒に。
「私、浜田さんの曲を聞くと泣くよ」と伝えると
「大丈夫。ハンカチ沢山持ってきたから」って。それからは彼も浜田さんを聞き、彼がギターを弾いてあれもこれも歌って、色々なことに笑ったり、嬉しかったり、辛かったり沢山の感情がうまれて。
変化を楽しむ覚悟があれば、彼との人生を歩む選択ができた機会は何度かありました。
でも、決心が付かなかった。
私は別の道に。
彼も別の道に。
何れ彼は実家のある広島に戻って行きました。
広島の彼から幾度となく電話はありましたが、やはり決心できずに。星が覆い尽くす広島の夜空は忘れられません。
今でも彼は広島でのライブに出掛けているようです。
知香映
2024/08/04
浜田省吾
1952年生まれ、広島県出身。
1975年、ドラマーとしてデビューし、翌1976年ソロデビュー。
デビュー当初からライブを活動の中心に置き、1982年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、1998年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。
代表曲は「悲しみは雪のように」(1981年)や「もうひとつの土曜日」(1985年)、「片想い」(1978年)などの名バラードの他、「J.Boy」(1986年)、「Money」(1984年)、「路地裏の少年」(1976年)など多岐にわたる。シングル「悲しみは雪のように」、アルバム「J.Boy」はそれぞれオリコン・ウィークリーチャートで1位を獲得、2000年にリリースされた初のベストアルバム「The History of Shogo Hamada “Since 1975”」は150万枚を超える大ヒットとなっている。
現在までにオリジナル/ベスト盤を合わせて35枚のアルバムを発表している。
Shared Episodes
私が当時、大学2年生(1993年)の夏に、友達の飲み会で出会った女性が浜田省吾フアンでした。自分も高校生からのフアンでお気に入りの歌で盛り上がり、直ぐに付き合うようになりました。
自分の好きな曲が「サイドシートの影」で、いつも「悲しいね」て言ってました。
翌年、自分の不注意で彼女を傷つけてしまい、別れてしまいました。
この曲を聴くと何時も、後悔してばかりでした。
大学3年終わりの年の1月(1995年)阪神大震災が
発生し、彼女が心配して電話をくれました。少し別れた後の話をしましたが、許しを乞うてまたは付き合って欲しいとは言え無かったです。彼女をこれ以上傷付けたく無かったから。
それでも、この曲を聴くと当時の楽しい思い出と、ずっと好きだった気持を思い出します。